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「職業としての小説家」の中で村上春樹が語った「小説を書くことには向かない人」について考えたこと。


「何が言いたいかわかっている人」は小説は書かない。

正確には、村上春樹が「職業としての小説家」の第一回で「小説を書くことには向かない人」(P22)で上げた特性を自分なりに考えたものだ。

自分の頭の中にある程度、鮮明な輪郭を有するメッセージを持っている人なら、それをいちいち物語に置き換える必要なんてありません。その輪郭をそのままストレートに言語化したほうが話が遥かに早いし、また一般の人も理解しやすいはずです。(略)
頭の回転が速い人にはもちろんそういうことができます。聞いている人も「なるほどそういうことか」と膝を打つことができる、要するに、それが頭がいいということなのですから。

(引用元:「職業としての小説家」村上春樹 新潮社 P23/太字は引用者)


村上龍も「何を言いたいかが分かっていれば、小説なんて書かない」と言っていた。出典を覚えていなくて申し訳ないが。

村上春樹風に言えば、物語というのは読んだ多くの人に「なるほど、そういうことか」と膝を打たすものではない、ということになる。


「物語を書くことに必要な特性」は、「解釈しないことに耐えられること」ではないか。

ここからは村上春樹の言葉を読んだ自分の理解になるが、「物語」は「説明(解釈・意味)」とは違う、むしろ真逆のものだ。

「説明(解釈・意味)」は、それを聞く人の多くに、詳細に正確にわかってもらうことを目指す。つまり自分の中にある思考や感情、理解を、言葉でなるべく正確に限定していく作業だ。

言葉は「事物そのものを指し示すもの」ではなく、「多くの人が共通認識が出来るように、概念を便宜的に区切り生み出すもの」、多くの人が共通認識出来る「記号」を組み合わせて、自分の中のものを正確に理解させることに目的がある。


「物語」(創作)は逆で、言葉を象徴として使うことで、自分の中にあるイメージを無限に広げて、相手の中にイメージを喚起させ、それをつなげてさらに別のイメージを作り上げていく作業である。

「書き手のイメージ+読み手が物語から喚起されるイメージ=読み手が読む物語の全体像」

になるため、「書き手のイメージ」と「そこから読み手が想起するイメージ」と「それらが組み合わさって出来た、最終的に読み手が『読む』物語」はまったく違う。

何故かというと、物語は言葉で語られながら、言葉の日常的な働きである「記号的に事物を指し示し、概念を限定させる」ことと真逆のことをしているからだ。


「物語を読むこと」と「精神分析」は似ている。

村上春樹は、どこかで「自分が考える物語の意味を正確に理解してくれたのは河合先生だけだ」と書いていた。

河合隼雄の「ユング心理学入門」を読むと、村上春樹が考える「物語の意味」は河合隼雄が(もしくはユングが)考える精神分析に近いのではないか、と思う。

このように、一つの夢が与えられたとき、できるだけ全体の縦列の中においてみ、そのときの意識の状態に照らし合わせて、個々の内容について一つ一つ丹念に連想を積み上げてゆく。そうすると、そのなかにわれわれは何らかのまとまりを持った布置を見出すことができる。
このような分析家と被分析家の相互作用による操作を通じて夢分析が行われるのであって、一つの公式や、きまりきった方法で簡単に夢の内容が解釈されるようなものではない。
このことをユングは「分析家は何をしてもいいが、夢を理解しようとだけはしてはならない」という警句によって述べている。

(引用元「ユング心理学入門」河合隼雄編 岩波書店 P190/太字は引用者)

「夢」が(読み手が読む)テキストで「分析家」が作家、被分析家が「読み手」と考えると、自分の中では割としっくりくる。

この箇所に限らず、本書のそこかしこで(精神分析や心理療法に対する一般的なイメージとは異なり)「分析家は分析をしてはいけない、解釈をしてはいけない、指導してはならない」と繰り返し出てくる。

ラカンの超入門書「疾風怒濤精神分析入門」でも同じことが書かれている。
ラカンの考えによると「分析(する)主体」は患者である。「誰が精神分析をするのかと言えば患者自身」(P30)なのだ。

分析家が「意味を持った解釈を患者に与えると、患者を支配することになってしまう」(P31)

この辺りは精神分析がどの流派もそうなのか、ユングやラカン、もしくは河合隼雄の独特の考えなのかは専門家ではないのでわからないけれど、自分が「物語とは何なのか」と考えたときの「物語」はここで書かれている精神分析の考えに近い。

なので下の記事で書いた通り、

「『物語を読む』とは固定されたものとしてテキストを受け取ることではなく、読み手が独自の認識を刷新しながら了解を積み上げていくものでは」というのが、自分の考えだ。


「解釈や意味や説明」などの記号的な言葉の使い方は、「他人の思考(意識)」に接続するためのものだ。

しかし物語は「他人のイメージ(無意識)」にも接続することが出来るものなのだ。

思考は限定的なものだけれど(というより、言葉によって限定されるから『思考』なのだけれど)、イメージは無限だし、人によって千差万別だ。他人のイメージに接続するためには、自分のイメージを言葉に乗せて接続させなければならない。

「深層下の夢で会っている」感覚に近い。夢だから言葉(意識)の外にも出ることが出来る。

「言外のイメージ」に自分の意味、解釈を言葉によって付与してしまえば、それは「読み手の夢」にはならなくなってしまう。


なぜ「物語」というフレームが必要なのか。

自分は長く「創作は書き手が自分の意味(解釈)を込めるものだ」と思っていた。だが恐らく違うのだ、ということに気付いた。(*これによって読み手としての意識も大きく変わって、下の記事のような考え方になった)


村上春樹は本書の中で繰り返し、「本書の中で書かれていることは、あくまで『自分という作家』に限定したことだ」と書いている。

ただ「書き手が自分の考え、意味(解釈)を込めるもの」なのだとしたら、物語化する必要はなく、それをそのまま話せばいい、そのほうがより多くの人に、より正確に伝わりやすいのに、「物語というフレームが何故必要なのか」ということを考えたとき、自分は「職業としての小説家」に書かれたことに、また精神分析の姿勢について書かれたことに「なるほど」と納得した。

この「なるほど」を以て自分も創作をしたくなったので、今後は小説も書きたいなと思っている。

あくまで自分の場合はだけれど、創作脳と解釈脳は真逆なので、創作脳の体操のために読み手としてもしばらくは余り解釈はしないで、感覚で創作を楽しもうかなと思う。



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