見出し画像

「読者としての自分」が「読み続けるブログ(note)」は、どんなブログか。

年末に反省したのに、結局1月もブログを9記事書いている……orz
ただnoteのほうは記事を短めにしたので、総量としては減っている……はず。
まあうん、なんだ、余り気張らずにゆるゆると自分のペースでやろう。書きたいときは書くべき。

そんなこんなでブログライフも八年目に突入するけれど、「読者としての自分」を余り考えたことがなかった。
「読者である自分は、どんなブログを、どんな風に読み続けるか(読み続けたか)」を考えてみた。

あくまで自分一人の話なので、特に普遍性も再現性もない。一般的でもない(と思う)のであまり参考にならないと思うけど、読者のひとつの像としてお読みください。

◆最初の基準は、「内容に関心があるかどうか」

ネットの記事を読む時は「この人が書いているから読む」という人も多いと思う。
「この人」の部分は「有名人だから」「知り合いだから」「自分と属性が近いから」などがあると思うが、自分はこの部分には最初はほとんど興味がない。
内容に対する自分の興味で読むものを選ぶので、はてブみたいな内容主体のキューレーションを重宝している。

◆自分の中の、「読む物への面白さの段階」

「読者の自分」の「ブログ(長文コンテンツ)の面白さの段階」は下記のように分かれている。

①「(書いている人は誰だが知らないけれど)この記事、面白そう」
②「この人、いつも面白いことを書くからフォローしてみよう」
③「この人の書いたものは読み続けても飽きない」
③はさらに二段階に分かれる。
(1)暇な時に思い出して訪問する。
(2)常に存在が頭の片隅にあって時間がある時の選択肢に入っている。自分が興味がある話題について書いていたら必ず読む。

◆「面白さ」のレベルによる認知度。

自分が読む時は
①「(書いている人は誰だが知らないけれど)この記事、面白そう」
から入る。
①を繰り返して「面白さ」という信頼が積み上がると、書き手を認知する。認知するとフォローする。(この時点では自分の中では書き手の人は「書き手」というただの記号。)
フォローすると過去記事を読み出す。
というより、興味のある過去記事を読むためのブックマークとしてフォローする。
過去記事を読んで「面白い」という信頼がさらに積み上がると、新着記事も読み始める。新着記事を読み始めるころに、書き手を「その人」として認知する。
ここで、③に移行するかしないかの分岐が訪れる。

◆一定期間読んだら、読まなくなるのは普通のこと。

記事を読み続けると、途中から読まなくなることがある。
むしろそれが普通だ。
一般の人が一人で作っているコンテンツなのだ。
そんなに日々、面白いことが起きるわけでもないし、知る人ぞ知ることを語っているわけでもない。「読む人を楽しませるためにあらゆることをしよう」とストイックに追及しているわけでもない。何なら読み手が暇つぶしで読んでいるように、書いているほうも暇つぶしで書いているかもしれない。
自分と一切関わりがない一般の人が書いたものに飽きないほうが特異なのだ。

では、この「特異の壁」を越えて、③に移行するのはどんな時か。

◆「特異の壁」を越えるもの

③‐(2)までいっているブログは、どんな基準で入っているのかを考えると

・フォロワー数(他の人の評価)は関係ない。
・人としての好き嫌いは関係ない。
・意見が合う合わないは関係ない。

また、②の段階で「凄い、面白い」と思って熱心に読んだものほど③にいかない。
②の段階では「そういう考えもあるのか」「え? それはどうかなあ?」と思いながら読んでいたもののうちいくつかが③に移行している。

・②の段階で「凄い! 面白い」と思った人が③にいかないのは何故か。
・フォロワー数(周りの評価)、人格、共感が関係ないなら、自分が③の人が書いている記事に見出している「面白さ」とは何なのか。

このあたりが「自分が読み続けるブログ」のポイントだと思う。

◆結論:自分が面白いと感じるのは、その人の「世界の見方」。

自分が「このブログを読み続けたい」と思う面白さは、(狭義の意味の)記事の面白さではない。
記事を読み続けると見えてくる、書き手の「世界の見方」(思考の枠組み、物事の認識のしかた、世界観などでもいいが)なのだ。

そう考えると、②で「凄い、面白い」と思ったブログがなぜ③に移行しないのかもわかる。
一記事(長くても5000文字くらい?)くらいで「凄い、面白い」と他人である自分(読み手)に伝わるということは、②で留まるブログの書き手は「伝わりやすい面白さ」を第一義に考えて表現する人なのだと思う。

自分が他人が書くものに求めているのは、「自分とは違う物の見方」だ。
「その人がどういう風に世界を見ているか」は、一記事を読んだだけではわからない
「Aの問題はこう見ていて、Bの問題はこう見ていて、Cの創作はこう読んでいて、Dの人についてはこう思っている」
そういう話をいくつもいくつも聞いて(最低でも何十記事かは読まないとわからない)ようやく、「この人が世界を見る目はこういう感じなのかな」と伝わってくる。

「書き手が世界を見る目」を読み手が認識できるかどうかのポイントがいくつかある。

(1)「本当に思っていることを書くこと」に比重をおいているか。
(2)その人の中に何らかの縛り(信念でも信条でも偏見でも内省でも何でもいいが、外的要素によって忖度できないもの)があるか。

(1)は(実際に会うならともかく)文字だけの情報だと「本当にこう思っていること」を書いていない人の世界観は推測しようがない。
(2)は、「偏り」はその人がどういう風に物事を見ているかを推測する大きな要因になる。(ちなみに一見してすぐにわかる偏りは、周りに影響を受けやすい、その一点に依存しやすいことを表すので、個人の世界観を構成する要素としてはむしろ弱いと感じる。)

縛りは、その人が自分の内部に設けているルールである。
「君のクイズ」の感想で書いたが、「世界は法則性(ルール)によって限定されること」で初めて構成される。

世界に広がりはある。しかし限定されることによって世界は世界なのだ。
無限の広がりがあり可能性が限定できない。そうなったら「クイズ」は「世界」ではなくなってしまう。そこでは三島はクイズオタクではなく魔法使いにされてしまう。
だからクイズは魔法であってはならない。

(【小説感想】「クイズ」という異世界を描く、小川哲「君のクイズ」の三つの読みかた。)

「君のクイズ」になぞらえれば、ヤラセだとゴリ押しすれば賞金一千万もらえる、魔法に見せかければ周りから賛美される。
だとしても「自分はクイズオタクなのだ」という内面の縛りによって、クイズ世界に生きている人。こういう書き手のブログを読み続けることが多い。

その人本人が「自分はクイズオタクだ」と言っているわけではない。(そんなことはまったく思っていないと思う)
その人が魔法を使ったほうが良さそうなところでも魔法を使わない、ヤラセだと主張すれば一千万がもらえるところでも「あれはヤラセじゃない、クイズだ」と言う記事を何記事か読んで、「ああ、この人はクイズ世界に生きるクイズオタクなんだな」と思うのだ。

そうすると「クイズ世界(自分にはない世界観のこと)に生きるこの人の目からは、この話題はどう見えるんだろう?」と意見を聞きたくなる。
自分が長期に渡って読み続けるのは、そういうブログが多い。

◆まとめ:自分が特定のブログの定期講読者になるまでの道筋。

①(誰が書いたかは知らないが)興味をひかれたので記事を読む。
②何記事か読んで「面白さ」の信頼が積み上がると、フォローして過去記事も読む。
③書き手の「世界の見方」がわかると、自分が興味ある話について書いている時に定期的に読むようになる。
こんな感じだな、と今回考えてみて気付いた。

この関門をクリアするには
・ある程度、平均的に興味が惹ける記事を書ける。(最初に興味を惹くため)
・世界観を知るために最低二十記事くらいは必要だが、そこに入るのは恐らく五記事に一本くらい。つまり最低でも百記事は書いている。
・読者が定期的に読みにくる、ということは定期的に読むものを用意しなければならない。(書き続けなければならない)
という条件になるから、この時点でけっこうハードルが高い。

◆書き手としての自分の目標。

書き手としての自分の目標は、「ふと暇になった時に『そう言えば、あの人、何か書いているかな』と思い出す対象に入れてもらうこと」だ。
読者が「自分のような人」だと想定すると、これはかなりハードルが高い。
しかし(自分の場合は)ハードルが高いために、一度そのハードルを越えるとよっぽどのことがないと……どころか、よっぽどのことがあっても読み続けたりする。

似たような人がいるのかはわからないけれど、とりあえず自分はこういう読者だ。

この記事が参加している募集

自己紹介

noteの書き方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?