創作の感想は「私」が語れ。
この増田について。
*終盤までのネタバレ及びゴールデンカムイについての否定的な意見が書かれているので、読む場合は注意。
基本的に主語を「私」にしないで、主張、感想、意見(データを用いた分析や論文などはいいけど)を語る人が余り好きではない。
「みんなこう言っている」という人はそれだけで斜めな視線で見てしまう。「みんなこう言っている」は(アンケート結果などがない限り)ただの推測であって意味がない。
「みんながこの作品は駄作、というが私(俺)は好きだ」
「みんながこの作品が名作、というが私(俺)にはnot for meだった」
「みんながこのキャラは嫌いだというが私(俺)は好きだ」
「みんながこの話はこういう話だというが、私(俺)にはこう見えた」
こういう話が好きだ。
だから増田が「こう思ったこと(感想)」の根拠として、「そう思っている人が大勢いる」ということを上げるところに疑問を感じる。
公表されている作品に対しては、批判もネガティブな意見も言うは自由だ。
でもその意見の妥当性を主張して、その根拠に「大勢の人が言っていること」を持ってくるであればデータを取るしかない。
①私の意見の妥当性は主張したい
②だが「批判をした責任」は引き受けたくない(引き受けられない)
③データやアンケートを取るのは面倒臭い。
自分の言葉(感想)の責任を大勢の人間に分散することで、「批判する主体である責任」から逃れようとしているようにさえ見えてしまう。(そういうつもりはないと思うが)
「私だけじゃない」と言いたくなる気持ちはわかるし、自分もブログを書いている中で言ったことはあると思う。(メインは「自分はこう思う」だとしても)
でもやはり最終的には責任を一人で負う作者が公表した作品に対して批判をするなら、批判するほうも責任を取る姿勢を示すことは大事だと思う。
今は情報も知識も感想も意見も、調べればいくらでも出てくる時代だ。
だからこそ「自分一人で創作を読んで(見て)、まず自分一人で感想を言う」ことがとても重要に感じる。
増田が一番言いたいのは、結論に書かれているこの部分ではないか。
「何かおかしい。読むのが辛い。止めよう。でもやっぱり」って思って“結局は戻ってきた”。「それくらい『ゴールデンカムイ』が好きだった、それなのになぜ」ということを、一番言いたいのではないか。
否定的な人がたくさんいたのはわかった。
疑問を持った人がたくさんいたのはわかった。
失望して読むのを止めた人がたくさんいたのはわかった。
でも、増田は戻ってきた。
「何度か読むのをやめてしまっ」て、でもそのたびに戻って来た。
「読むのをやめてしまった人」と「苦痛を感じても読み続けた増田」とはまったく違う人間だ。
なぜ、「読むのをやめてしまった人」を介して「疑問続きで、どんどん読むのが苦痛になっていき、それでも結局戻ってきた」自分を語るのだろう。
なぜ「何人も読むのをやめてしまった人を見かけても、それでも読み続けた自分」として感想を語らないのだろう。
なぜ、「読むのをやめてしまった人」なんか持ち出すんだ。
「読むのをやめてしまった人」を通して、読むことが止められなかった、それくらい「ゴールデンカムイ」を素晴らしい漫画だと思った増田の疑問と苦痛の何を表現できるんだ。
増田は結論でこう書いている。
自分もかつて同じことを感じた。「進撃の巨人」に。
「作品は作者のもので、作品の行く末を決められるのは作者だけ」
それが正しい。
それは百も承知で、それでもやっぱり考えてしまうのだ。
例え「みんな」という主語でしか語りえないのだとしても、増田が「ゴールデンカムイ」がかつて凄い好きだった、ということは伝わってくる。
好きでなければ、こんな長文は書けない。
初動売上を調べたり、「ゴールデンカムイ展」に何人の人が来るかを気にしたりしない。
自分は創作に対して面倒臭いほどこだわる人が好きだ。
そういう人はその創作を例え自分が知らなくても、趣味が合わなくても、会うこも話すこともなくとも(勝手に)同志だと思っている。
ネットに求めているのは、そういう面倒くさい人の「私だけの感想」だ。
「たかが創作」に苦痛を感じるほどのめり込んだ人が「たった一人の自分」として語る、その作品への重い思いを聞きたいのだ。
上記のような疑問を感じて苦痛を感じて、周りの人は読むのを止めてもやっぱり気になって戻って来る。
「何年も作品を追いかけ、キャラを応援してきたのに」という自負を抑えきれない。
かつて自分が惚れこんだ物語が一体どうしてこうなってしまったのか、という疑問を抑えきれない。
それくらい自分はこの作品が好きだったんだ、ということを誰も聞いていなくても叫びたい。
そんなこの世界にたった一人の「私」の感想が聞きたいのだ。