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「進撃の巨人」について本当に思ったことを、やはり書いておきたい。

「進撃の巨人」を最後まで読んだ感想として、「個人的な物語からみんなのための物語になったんだな。何はともあれ完結おめでとうございます」という当たり障りのないことを書いた。

自分が「進撃の巨人」という話を最後まで読んで感じたことは、恐らく他の人とは共有できないだろうと思ったからだ。

でも「進撃の巨人」について思い出し、どうしても自分があの話から受け取ったものを言葉にしておきたいという気持ちがわいた。


自分はずっと、「進撃の巨人」は作者が見た世界をそのままを描いた物語だと思って読んでいた。

壁に囲まれて何も分からず、「世界=他人」は巨人の姿をしていて意思の疎通が出来ず、何故かはわからないが壁を壊し、何故かはわからないが壁の中の人間を殺戮する、そういう世界で実際に生きている人が見たことをそのまま描いているのだ。

客観的に(つまり自分たちの目で見れば)他人が言葉の通じない巨人の姿をしているわけがない。
しかし、目に見えるもの以上のものとして「真実=自己に対する作用」においては、他人はコミュニケーションがとれず、ひたすら自己を脅かす巨人なのだ。

哲学で言えば、実存的な視点で出来た世界だ。

「進撃の巨人」の中では、キャラの好き嫌いが余りない。自分から見ると「進撃の巨人」の登場人物はすべて同一人物(を起源にしているから)だ。(ユミルの民の『道』の設定など、作内でそのことを示唆する部分もある。)

以前「創作の登場人物は、ぜんぶ作者の分身か」という疑問に「ケースバイケースだろう」と書いたが、「進撃の巨人」は多かれ少なかれ作者の分身……というより、あの話は作者の内部の閉じられた世界を描いているのだろうと思っている。

「進撃の巨人」で描かれている通り、世界(社会)は自己に対して、強い干渉力を持つ圧倒的な存在だ。

「進撃の巨人」が絵が拙いなどの欠点を指摘されながら、初期から爆発的にヒットしたのは、物語世界で主人公たちが抱える「自己と世界の対立→自己を抑圧する世界の理不尽さへの怒り」という問題は、多くの人が一度は感じることだからではないか。

自分が最初に「進撃の巨人」に惹かれたのは、抑圧の強烈さとその反動から生まれる怒りのエネルギーの凄まじさだ。

初期のころ、主人公エレンの「一人残らず駆逐してやる」という言葉をはじめ、作内の色々な箇所で言及されているように、「進撃の巨人」は怒りの物語だ。

(引用元:「進撃の巨人」2巻 諌山創 講談社)

訳が分からない、それなのに自分に干渉し抑圧する世界に対する激烈な怒りが描かれている。

四巻でエレンが壁に開いた穴をふさいだとき
「人類が今日、初めて勝ったよ」
と書かれている。
これを「世界対自己」の文脈に直すと、「世界(他者・社会)に対して初めて自己を主張出来た」になる。

一体、どれほど自己を抑圧してきたのだろう。
「自分の主張を世界が何も聞かない」というレベルで怒っている自分とは比べ物にならない抑圧のされかた、その表裏としての怒りのエネルギーの凄まじさだ。(これについては「情熱大陸」を見て納得した)


そういった世界に対する怒りの先に、「進撃の巨人」は「自分もまた誰かにとっては巨人だった」ことを発見する。
かつて自分がさらされた、自己を内部から理不尽に破壊されるような抑圧を、無力な自己を喰われ殺戮されるような残酷さを、自分も他人に対して行っている。
「これほど他者からの抑圧の理不尽さに苦しむ自分が、他者にとっては理不尽で無慈悲な世界そのものであることが、世界の残酷さだ」

リヴァイをあれほど怒らせたジークは、エレンでもあるのだ。

その残酷な真実を知り、誰かを踏みつけ破壊する罪悪を背負ってなお、この世界で生き続けるのか、自分が求める世界を肯定し続けるのか、その葛藤を自己の内部で問い続ける話なのだ。

こういう「人間の善悪、世界の矛盾」のようなテーマの話は、葛藤を読み手に預けることが多い。
「進撃の巨人」が凄いと思う理由は色々あるが、そのひとつは罪悪感を読み手(他者)に押し付けない点にある。

仲間は殺されるどころか、仲間を時に裏切り、時に死ねといい、親を裏切り子供に裏切られ、妻は自分のせいで巨人になり、最初の妻が二度目の妻を喰らい、自分もまたあれほど憎んだ巨人であり、生きるためにはかつての自分と同じ無力な子供を踏みつぶさなければならない、そんな残酷な世界の成り立ちにどうしようもないほど怒り苦しみながら、それでも自分が始めた物語なのだからと全ての罪悪を引き受ける。

世界の矛盾と人の罪悪をただ一人で背負い進み続ける物語に、どういう結末が待っているのか、知るのが怖いほどだった。


「進撃の巨人」は、本来とても個人的な物語だ。
自分の周りに何重にも壁を築いても、それを壊し自己の内部に侵入してくる無慈悲な世界への怒り、その怒りがあってなお、外の世界を見たいと望む、巨人という世界と対峙する個人の怒りと渇望の叫びそのものだった。

それなのに。
最後の最後で「自分よりも世界」を取った。

あのラストは自分の中では「進撃の巨人」のラストとしてはありえない。
何故なら、「抑圧されようが、そのことに腹を立てようが、世界を愛しているのだからそのことに耐えて、世界の調和のために自己を犠牲にしてもいい」そのことに納得しているのであれば(ユミルエンドと呼んでいる)「進撃の巨人」という物語そのものがいらないからだ。 

「人から見れば身勝手な怒り」「自分もまた他者にとっては世界なのだから、耐えなければならない」それでも耐えきれないから、その怒りを爆発させたのではないのか。
それがどれほど身勝手な怒りに思えようと、みんなそうなのだから、自分だけではないのだから、と思おうとしても、それでもその怒りを抑えきれないからこの物語は始まったのではないのか。

「情熱大陸」で紹介された「進撃の巨人」の最後の一コマ、「エレンが子供を抱き締めて『お前は自由だ』」という絵、あの絵は、自分がそれまで読んできた「進撃の巨人」という話が出す答えにふさわしいものだった。
あれが「進撃の巨人」という「世界に対してどうしようもなく怒り、その怒りと同じくらいの強さで世界を求める人間の物語」の真エンドだったのではないだろうか。

「進撃の巨人」で描かれているほど強烈な抑圧ではなくとも、そこから生まれた怒りのエネルギーには強く共鳴していた。

(引用元:「進撃の巨人」20巻 諌山創 講談社)

「進撃の巨人」の登場人物たちが、作内で怒りの叫びを世界に向かってあげるたびに、自分の身の内にかつてあった同じ怒りが、もしかしたら今この瞬間に生まれたのかもしれない怒りが繰り返し再現された。

そうしてそのたびに励まされた。
「進撃の巨人」で叫ばれる怒りは、世界に対する強い負の感情であると同時に、「それでも外の世界に行きたい。何故なら自分はこの世界に生まれてきたからだ」という、世界に対する肯定の叫びだからだ。 


「進撃の巨人」は、最後に「書き手(自分)」ではなく「読み手(他人)」を選んだ。書き手以外の全員が幸せになれるように、全ての罪悪を物語が(作内ではユミル→ユミルが解放されたあとはエレンが)背負って幕を閉じた。
世界に対する怒り」を体現したこの話は、最終的には自分よりも世界を取った。

もし、創作者がよく言う「自分たちが書くものは読者がいて成り立つものだ」という言葉を真に受けて、例えそれが作者に比べれば砂粒ほどの力でしかないとしても、読み手が多少とでも創作を支えているのだとすれば、「進撃の巨人」を読み終わったときに、この物語がこういうラストになったことについて、読み手(世界)の一人として不甲斐なさを感じた。

一体何が「進撃の巨人」を、個人の怒りの物語から「みんなのための物語」にしてしまったのだろう?
自分はこの話の読み手として何かが足りなかったのではないか、どこか至らなかったのではないだろうか。そんな風にすら感じた。 


「進撃の巨人」を読んだ限りでは、諫山先生はとても優しくストイックな人なのではないかと思う。

でも読み手の一人である自分は、その怒りを、その葛藤を、世界にぶつける地点まで問うて欲しかった。誰かを抑圧する世界の一部として、世界の理不尽さを弾劾する激烈な怒りと最後まで対峙したかった。

「進撃の巨人」がユミルエンドを選んだ(選ばせた)時点で、自分の中の同じ怒りも「まあ、この辺でいいだろう」と諦念と共に消えた。
それは、世界に怒りを向けながらも、世界を求める気持ちでもあったのだ。

最初に本誌に掲載されたリヴァイが主人公の読切を読んだとき、兄ちゃんに「すごい話が載っている」とまくし立てた時の興奮を今でも覚えている。
あの時の自分は間違っていなかった。
でも間違っていた。
「進撃の巨人」は、自分が想像したよりずっと凄い話だった。

「進撃の巨人」の怒りが好きだった。
その怒りは理不尽なものだと認める誠実さが好きだった。
その怒りを他人に向けず、罪悪を全て背負い、ひたすら自己葛藤し続けるストイックさが好きだった。
世界は残酷だと知りながらも、そこで生きたいと願う強さが好きだった。

色々なものを受け取りながら、最後まで何も返せず、全てを背負せて終わってしまった。

そのことが未だにとても寂しいのだ。

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