見出し画像

【ゲーム考え事】構造からみた狭義のパズルとそれ以外のゲームの差

 筆者の経験・技量・考察不足から、誤った情報を含んでしまっている可能性があります。誤りや不足している情報、ご意見等がありましたら、筆者のTwitterアカウントにご連絡いただければ幸いです。

 以下の文章は全て個人的な見解です。権利者の方々による指摘や、個人的な気付きによって、予告なく変更・削除する可能性があります。



前提

  • (狭義の)ゲームに関しての内容。

  • あくまで個人の考えや感想が主体。

  • 主に用語の用法などは過去の記事参照。



目的

 パズルはゲームの一形態であると考えられるが、独立して取り上げられることも多く、性質が異なる部分も多い。

 狭義のパズルと、それ以外のゲームに関して、構造的な違いを考えることで、ゲームデザインに生かす。また、その差分が、ゲームの性質や、プレイヤーの好みの一部の説明に使用できる可能性を示す。



結論

 それが構造として、狭義のパズルであるか、それ以外のゲームであるかは、どの程度『問題に対する解答が判明している』と感じられるかによって定義できると考えた。

 これを未解決性と呼び、それがない(つまり、必ず『問題に対する解答が判明している』。端的に言えば、作者が解答を用意している)ものは狭義のパズルである。パズルと明言されているものは、必ず作者が解答を用意している。しかし、それ以外の(狭義の)ゲームでは、解答が用意されていないことがほとんどである。


 また、ゲームの内容、その内部で発生する問題に対しても、この未解決性の概念を導入することができる。

 アナログゲーム(中重量級ボードゲーム)に関しては、それが『全体の問題』であり、競技人口が多い(ゲームが人気である)ほど、未解決性が低いと考えられる。(つまり、目の前の問題に対し、誰かしらが『問題に対する解答が判明している』状態にある可能性が高いと感じられる)

 デジタルゲームに関しては、その様式が多岐にわたるため、明確には断言できないが、ゲームを進める(ゲームで遊ぶ)ために、『デザイナー側が用意した解答そのもの』が必要になるのであれば、未解決性が低いと言える。

 筆者にとって、ゲームというのは、『未解決性が高い問題を解く遊び』という側面に面白さを見出している点が大きく、ゲームが生成する問題が未解決性が高いか低いか、というのは、そのゲームの性質を決定づけている側面があると考えているが、この点に関しての詳細は後の記事に譲る。



考察

パズルの多義性

 『ゲーム』という用語と同等に、『パズル』という言葉も様々な使い方をされていると感じる。

 たとえば、ゲームジャンルとしてパズルゲームと呼んだ時の『パズル』という単語は、『図形的な意匠を用いて、それを空間操作する』という表現方法を指しているように思う。

 一方、パズル本のような媒体でまとめられている『パズル』というものはその問題の形態・構造を指していると考えている。

 本稿では、後者の『問題の構造』に関しての用語として、狭義のパズル、あるいは単にパズルという用語を使い、他の使用方法の場合には特記することとする。


構造としてのパズル

 上述した構造としてのパズルとは何を指し、他のパズルではないゲームと何が異なるのか、を考える。

 この時、考察する対象として、最も都合が良いと感じたのは「詰将棋」と「将棋」である。

 「詰将棋」は一般的にパズルと呼ばれるが、「将棋」はパズルとは呼ばれない。しかしながら、その根底のルールは原則的に同じであり、「将棋」の盤面を進めていくことにより、「詰将棋」の問題と同じ形になることもある。この差は何だろうか?


 この差は、『解答が判明しているかどうか』である、と筆者は考えた。

 つまり、「詰将棋」として用意されているものは、作者が『解答』を用意している。もちろん、他の解答(手段)が発見されることもあるが、少なくとも、最低限の解答はある。そうでないものを「詰将棋」として提示することはできないだろう。つまり、既解決である。

 しかしながら、「将棋」には当然ながら、解答が用意されていない問題(盤面)が存在し、その解答は誰もが知りえないことがある。ゲーム数理的には、本質的に解析可能であるかもしれないが、少なくとも執筆現在の人類には到達していない点である。つまり、未解決である。

 ただし、上述したように、「将棋」をプレイしていて、「詰将棋」の盤面になることがある。この時、そのプレイヤーがそこに解答がある(つまり、主観的ゲームとして解答がある)と確定した場合には、それはパズルと呼べるものになる、と考える。

 つまるところ、両者を隔てているのは、未解決性である、と結論付けた。

※補足※
 ここで、両者の違いは『インタラクション』でないか、という主張があると考えられ、それはある側面から見れば正しい。
 ただ、本記事で述べているような狭義のゲームにおいて、厳密なゲーム数理を考えた場合、インタラクションというもの(加えて言えばランダム性もここに含まれる)は、ある意味では意味を成さない。数理的に最善手が定まる(あるいは、定まらないためにランダムでしかなく、確率・期待値で示せる)ために、想定に含める必要がない、ということができる。
 ただ、これはあくまで、本記事が極論としてのゲームを取り扱っているためであり、たとえば、現在では高度な「将棋」は(少し奇妙なことではあるが)本質的にインタラクションのゲーム、あるいは(頭脳的な能力を試すという意味の)マインドスポーツと捉えてしまってもよいかもしれない。


未解決性

 ここで言う未解決性というものは、プレイヤーがどの程度、『問題に対する解答が判明している』と感じられるか、というものとして定義する。

 パズルとして提示されている問題は、プレイヤーは必ず解答があると思ってプレイするものだろう。だから、未解決性はない。仮に、作者の考えが間違っていて、解答がない(稀にそのようなケースがある)場合にも、未解決性はない。この用語はあくまで、プレイヤーの主観的ゲームにおける感覚にフォーカスしたもので、ゲーム数理的な話をしているわけではないからだ。

 たとえば、「どうぶつしょうぎ」はすでに必勝手順が発見されており、後手必勝である。これを、『必勝手順があります』として提示された場合にはそれはパズルであり、そうでなければ、(そして、両プレイヤーがそれを知らない場合には)パズルではないゲームということになる。

 つまり、プレイヤーが目の前の問題に対して、それが未解決なのか、既解決なのか、どちらであると感じるのかが大事なのだ。


 また、この尺度はデジタル的に峻別できるものではなく、アナログ的に分布するものである。

 たとえば、「チェス」のような一般的にプレイされているゲームであれば、その終盤にかかった時、その盤面を見て、まだこの盤面が誰にも解決されていない、未解決性の高い盤面だと思うことは少ないだろう。

 特に、前記事で述べたような『全体の問題』においては、未解決性が低いことが容易に想像できる。また、競技人口が多いほど、未解決性は低く感じられるだろう。

 逆に、『個別の問題』であると強く感じられるのであれば、その問題が未解決である可能性は高い、と感じらえるだろう。


 一般的なデジタルゲームにおいても、デザイナー側が明確な単一の解答を用意しており、それを満たさなければクリアできないような状況では、その問題は未解決性がなく、この側面で考えればパズルに近い性質を持っていることがわかるだろう。

 逆に、デザイナーも想定していないような状況であると感じられ、その再現度が低いとも感じられるのであれば、未解決性は高いと言える。



感想

 本当は、感想のような部分は、上述のような話と分離すべきではあるのだが、『未解決性』というものが主観的な感覚である、と定義している以上、それがどう影響するのか、というのをわかりやすくするために、筆者の感覚を説明する必要がある、と感じられたので、記載する。

 ここで、どうして、未解決性という概念を導入する必要があったかというとそれはプレイヤーのモチベーションに関連していると考えているからだ。

 少なくとも、筆者のモチベーションに影響していることがわかっている。

 筆者はパズルっぽいゲームはかなり好きなのだが、パズルそのものはあまり遊ばない。それが何故か、ということを考えたのだが、この未解決性が強く影響している、ということに気付いたのだ。

 これは、かなり主観的な話になってしまうのだが、どうして(狭義の)ゲームをやるのか、どうして目の前の問題に取り組むのか、ということを考えた場合、その解答を知りたい、という気持ちが強い(もちろん、シナリオを読みたい、といった別の理由で進めることもあるが、ここでは狭義のゲームの構造によって生まれるモチベーションだけを考えている)。

 この時、未解決性が低い(ない)と考えられる場合、それは誰かの知っている情報であり、自らがわざわざコストをかけてまで解こうとする気持ちがかなり下がるのだ。ネットで調べればいいじゃん、みたいな気持ちであり、それをわざわざ、自らが取り組むべき問題であると感じられないのだ。

 Agencyの話にも繋がるが、この場合には『デザイナーの手のひらで転がされているのが嫌だ』というような話に帰結することも多い。

 だが、この未解決性によるモチベーションというのは、そうではない。デザイナーの意図した通りの動きを自身がしていても気にはならず、その目の前の問題の未解決性が高いと感じられるのであれば、モチベーションは高く維持することができる。

 だから、厳密に言えば、一般的なAgencyの話からは少し外れると考えている(というよりは、Agencyとしてまとめられていることに多義性・多面性が存在する、と考えるべきかもしれない)。

 デジタルゲームで考えてみても、クリエイターが問題の解答を用意しているゲームはあまり興味がない。広義のゲームとして見れば、ノベルゲームやアドベンチャーゲームも好きだが、これはシナリオを読んだり、シミュレーターとして楽しんだり、という側面が強く、狭義のゲームとしての性質は持っていないことが多い。むしろ、変に狭義のゲームとしての性質が含まれているゲームの場合、興味が惹かれないことが多い。それは、未解決性が低い問題を提示されることが多いからである、と考えている。

 この辺の話を書いている文章を発見できなかったので、この記事はそれを明確化して、意見を募る、という側面がある。募っています。



まとめ

 構造としての狭義のパズルと、それ以外のゲームを隔てているのは、未解決性の有無である。

 未解決性とは、プレイヤーがその問題に対して、解答が未知である、と感じられる度合いである。必ず解答がある、と感じられる場合には、それは未解決性がないと言え、パズルはこれに当てはまる。

 未解決性は有無ではなく、度合いで示すこともでき、多くのプレイヤーに提示されたと感じらえる問題には解答がある、と感じやすい、つまり、未解決性が低いと言え、その逆では高いと感じられる。これは『全体の問題』と『個別の問題』とも関連付けられる。本質的に『個別の問題』であるほど、未解決性が高いと言える。(他のプレイヤーにその問題が提示されないために、未解決である可能性が高い、と感じられるため)

 この未解決性がプレイヤーのモチベーションに影響を与える例(筆者自身)が確認されており、この感覚は厳密に言えば(狭義の?)Agencyとは異なるように感じるが、例が少なく、意見を求めている。

 未解決性が高い問題を提供するのか、低い問題を提供するのか、というのはゲームの性質を決めることがあると思っているが、それは後の記事で詳細を述べたい。

 これが何かしらのきっかけになり、自分はどう感じる、どう考える、という話に繋がれば幸いである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?