【ゲーム考え事】ゲームのデザインとプレイの距離――あるいは、なぜ、あなたの感想が必要なのか――
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前提
(狭義の)ゲームに関しての内容。
あくまで個人の考えや感想が主体。
目的
ゲームというものがどのようにプレイヤーに届いているのか、プレイヤーがプレイしているゲームとは、実体としてどういうものかを明示することで、その評価をわかりやすくし、『感想』というものの価値を考える。
また、ゲームの面白さの種類など、主観的な要因の大きい事柄に対しての理解の一助とする。
結論
プレイヤーが実際に遊ぶのは、デザイナーが考えたゲームそのものではなく、様々な過程を経て、生成されるものである。
そのゲームは一回性のものであり、その時の感想というのは、アクセスが限られる希少な情報であり、感想には価値がある。
考察
『ゲーム』と『ゲーム』の距離
ゲームと一口に言うが、実際に我々が体験するのはゲームルールそのものというわけではない。デザイナーが考えたゲームそのものでもない。
それなりの課程を経て、プレイヤーが真に体験するゲームへとたどり着くものであると考えられる。
概念的ゲーム
デザイナーが考案したゲームそのものを概念的ゲームと呼ぶことにする。つまり、たとえば、プレイヤーがワーカーをアクションスペースに置くと、そこに書かれている処理を行うことにして、その処理とは木という資源を2つ得ることで~、というようなものだ。ルールやデータの集合体であり、概念的な操作だけが成立している。
これらは概念的なものであり、これをプレイすることはできない。
物理的ゲーム
概念的ゲームを基盤にして、ゲームとしての実体を生成したものを、ここでは物理的ゲームと呼ぶ。
たとえば、アナログゲームであればゲームルールやコンポーネント、デジタルゲームであればプログラムやアセットと言ったもので構成される。
これは実際には概念的ゲームと同等ではない。もちろん、瑕疵があれば同等ではなくなるが、瑕疵がなくとも同等にはならない。
たとえば、言語的な制約で十分なルールになっていないかもしれないし、コンポーネントの都合で概念的ゲームが再現できていないかもしれない。(たとえば、完全なランダム性を実行するのは難しいだろう)
ここまでくれば、他者が認識できるようになる。
実体的ゲーム
物理的ゲームによって、各ゲームプレイのたびに発生するのが実体的ゲームとでも呼べるようなものだ。
ランダム性や各プレイヤーの干渉などで同一の物理的ゲームでも同じ実体的ゲームが生成されるわけではないのは明確だろう。また、何らかの誤りによって(たとえば、ルールの読み違いなど)、物理的ゲームから生成されることがないはずのものさえ、生成されてしまっていることもある。
また、デジタルゲームに代表されるようにセーブなどを介して、現実世界では断続的に、ゲーム世界では連続的にプレイされることも多いが、基本的にはそれらは、ゲームデータが連続している別の実体的ゲームと見なした方が良い場合が多いように感じている。
MMORPGのように、連続性が高く、複数のプレイヤーが干渉している場合には、これらの厳密な定義はさらに難しくなるだろう。ただ、この場合、狭義のゲームから少し離れた部分も関わってくるため、そもそも、このような概念で定義して、考察することが難しいと言えるかもしれない。
主観的ゲーム
この実体的ゲームをプレイしているその時、脳内に発生している一定の電気信号のパターンこそ、我々が体験できるゲームであると言える。これは主観的ゲームとでも呼べるだろうか。
当然のように、プレイヤーの数だけ主観的ゲームは存在することになるので、1つの物理的ゲームから複数の実体的ゲームが生まれるように、1つの実体的ゲームから複数の主観的ゲームが生まれることになる。
これこそが、実質的にプレイヤーが体験するゲームである。
だから、たとえば、このゲームは面白くなかった、といった場合の『このゲーム』というのは、主観的ゲームのことを指している。つまり、それは別に他の人がプレイした主観的ゲームのことではない。
同じ卓を囲み、同じ実体的ゲームを遊んでいたとしても、主観的ゲームは異なる。もちろん、同じプレイヤーが後日、同じ場所で同じゲームタイトルを遊び、ランダム性を一定にしたとしても、主観的ゲームは異なる。プレイヤー自身に変容があるためだ。これはすでに一度そのゲームもプレイした、ということもそうだが、そもそも、プレイヤーの脳自体が変化していることも大きい。
つまり、同一の主観的ゲームは、絶対に再現し得ない、と明言してしまってもよいぐらいだ。
ゲームの好みは人それぞれだよね~とか、そんなこと以前に、そもそも同じものではないのである。
ゲームの感想の価値
これによって、簡単に得られる結論としては、各プレイヤーがあるゲームを遊んだ時の、その感想、その情報はとても貴重だと言うことだ。
主観的ゲームは一回性のものである。
二度と得られないかもしれない情報であり、そのプレイヤーが口を閉じてしまえば、この世から消失してしまう情報だ。
だからこそ、感想が必要なのだ。そして、質と量が大事なのだ。
ここで言う質というのは、難しそうな言葉で修飾して意味もない衒学的なことを言うということではなく、素直である、事実である、ということだ。そうでなければ、その情報は存在しないも等しい、いや、むしろ、誤った情報を追加してしまった、ということになる。感じたままのことを記せば、この世界に一つの貴重な情報が増える。わざと異なる感想を書けば、事実は二度と日の目を見ることはなく、異なる情報だけが残る。人々が普段考えているよりも、記憶は脆弱で、容易に改竄されるから、後々、思い出したそれは、その時のそれから変容してしまった可能性が高い。
そして、量というのは、単純にそのままの意味だ。同じ主観的ゲームは存在しないわけなので、ある1つのゲームに対して、毎日プレイを行い、毎日感想を書いたとしても、それは貴重な情報なのだ。もちろん、これは極端な例だとしても、各年ごとの感想であってもいいし、数年おきでもよい。言うまでもなく、多くのゲームの感想があれば価値がよりあるし、他のプレイヤーの感想があってもそうだ。それは同じ実体的ゲームに対する異なる主観的ゲームの感想であるのだから。
まとめ
デザインされるゲームと、プレイヤーが実際にプレイするゲームには、十分な距離があり、簡単に考えただけでも、概念→物理→実体→主観というような過程を踏んでいることがわかる。
プレイヤーが実際に触れることができるのは、主観的ゲームだけであり、そして、それは一回性である。ゆえに、その感想には十分な価値がある。
デザイナーはこの距離を超えて、多くのプレイヤーに十分な面白さを持ったゲームを提供しなければならず、それは困難であると言える。そのためにも、情報は少しでも多い方が良い。
だからこそ、あなたの、皆の感想が必要なのだ。ちょっとした一言でも良い。その一言はちょっとした呟きかもしれないが、ゲームデザインにおける偉大なる一歩でもあることは間違いないのだから。
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