22/10/2020:『Anne』
空港まで30分ほどの街にホテルを取った。地方都市、いや、都市というか地方街みたいなこじんまりとしたところだった。
「うわぁ、喫煙室だった。やられたぜ。」
受付でチェックインを済ますとエレベーターで6階に上がった。カードキーを差してドアを開けた途端にタバコの匂いに襲われた。
「そうか、だからあんなに安かったのか。」
と、スーツケースを無理くり台の上に乗せながら呟いた。
昔はタバコを吸っていたが、今となっては全く吸いたいと思わない。人はいつだって順応していく生き物だ。その一つの例を示している。
「まぁ、でも、仕方ないか。これはこれで。」
とはいえ、きついタバコの匂いもこれまた順応してきたような気がする。
実家の父の部屋を思い出した。二階に上がって奥にある彼の部屋には、こうやっていつもタバコの匂いがあった。週末、彼が家にいるときに遊びに誘おうと部屋をノックした時には、背中をこちらに向けながらタバコを吸っていた。
「これ吸ったらいくよ。」
と言って、何やら古い音楽を聴いていた。
そこは大人の部屋だったから基本的に僕や弟は入ることはなかった。
だから、たまにそうやって用事がある時に訪れ、見えたその景色は今でもちょっと特別な感じがする。
そんなことを思い出していた。
・・・
一応日本の玄関口にあたる街でもあるから、地元の人たちはもちろん、帰ってきた人やこれから出発する人たちに向けた飲食店が多いらしい。僕はこれから出て行く側だから、最後にはやっぱり美味しいものを食べたり飲んだりしたいと思う。
「でも、その前にお詣りしていこうかしら。」
と、ケータイを見ながら思った。
有名な神社が参道を下った先にあるらしい。僕はホテルを出て向かった。
・・・
大きな鳥居を潜ると、山に沿うようにして石段がずっと続いている。途中途中の踊り場的、もしくは大陸棚的な平面のスペースにも小さな祭壇や庭があって、きっとそれぞれに意味があるんだろうなと思った。
「なんか、やっぱ涼しい。」
夏が終わる時期のはずだったが日本はまだ死ぬほど暑くて、久々の一時帰国だったが、その暑さのせいでもう嫌になっていたところだった。でも、なぜか石段を登り中腹くらいまでくると、涼しさの方が勝り始めて、それが余計に神聖さというか、神妙さというか、禁忌的な色気を一緒に感じた。
「ま、でも上がってみればこんな感じか。」
頂上まで来ると白い石庭がワッと色がっていて、威厳ある風のー実際あったー建物がボンボン建っていた。正面奥には一番大きいな本堂があって、僕はそこで小銭を投げてお参りをした。
「案外あっさり。きっと、登って来る途中が大切なんだろうなぁ。」
と、妙に落ち着いたテンションで思った。
美味しそうな居酒屋を見つけておいたから、一度ホテルへ帰ってから行こう。そう決めていたから、そそくさとまた石段の方へ振り返り、降り始めた。
登ってきたときよりも一段一段が大きく感じられる。だから、思ったよりもゆっくり確かめるようにして降りないと危ない。
「ほら、やっぱり道中が大切なんだ。」
覆った木々の影に揺れながらまた思った。
踊り場的・大陸棚的な平面まで来た。小さな祭壇と池が左右に散見される。
すると、右側の奥の方に女性が一人、手を合わせて必死に何度も何度も頭を下げているのが見えた。
肩ぐらいの茶髪に白いTシャツを着て、ほっそりした肩から麺棒みたいな腕が伸びていた。
本当の本当に、必死に、こちらにまで息遣いが聞こえてくるほどその祭壇ー石でできたなんの色もない祭壇ーに向かって祈り続けている。
ハンカチを差し出して、
「よかったらどうぞ。」
と、言って渡したいくらいに。でも同時に、そうやって近づくのも憚られるほどに。
僕はそのまま静かに下り始めた。
僕は誰か(何か)に向かってあんなにも祈りを捧げたことがあるだろうか。
誰かが僕のためにあんなにも祈ってくれたことがあるだろうか。
タバコくさいホテルの部屋とか、美味しそうな居酒屋とか、それはそれでいいんだけど。
明日の今頃は空の上にいる僕は、きっと彼女の祈る姿を思い出しているだろうな、
と、思った。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
John Fruscienteで『Anne』。
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