献血の効能
「自分みたいな『しょーもない人間』は、
何か『世のため人のため』になっているのだろうか?」
40歳を越えたあたりから、しばしばそんな思いが頭をよぎるようになりました。特段、何かのきっかけがあったわけではないのですが…ときどきふと、そんなことを考える瞬間があるのです。
もちろん、仕事を通じて「役に立っているだろう」という思いはありました。しかし、そういう思いとはまた別のモヤモヤとでも言うのでしょうか。
世の中の人たちがみんな優秀に見えて(実際、僕が出会う方々はみんな優秀なのです)、つくづく自分の「しょーもなさ」が際立って…。
そんな思いが頭にあるときは、どんよりと沈んだ気持ちになります。「世のため人のためになっているのだろうか?」の問いの後には、当然のように(いや、なっていないだろう)があり、モヤモヤと暗いことばかり考えたりして…。
どうしたもんだろうなと思い悩み、解決策…になるのかどうかわからないけれど、ともかく始めてみたのが「献血」でした。
僕はおそらく、手っ取り早く目に見える形で「少しは世のため人のためになったよな」という実感が欲しかったのだと思います。
もちろん、そんな理由で献血するなんて、動機としては思いきり不純なものだったといえるでしょう。
しかし…。
どんな理由があるにせよ、血液であることに変わりはありませんよね。
例えば「ちょっと時間が空いたので暇つぶしに」「飲み物とお菓子が欲しかったので」という動機で提供された血も、等しく役に立つはずです。
おそらく僕の血も、日本のどこかで、誰かの助けになったことでしょう。
その感覚は、経験してみるととても心地よいものでした。ほんの少しだけですが、自分は『世のため人のため』になれた。さながらアンパンマンのように自分の体の一部を分け与えることにより「確実に役に立った」という実感が得られたのです。
この感覚はけっこう魅惑的で、それ以来、しばしば献血に行くようになりました。
献血は一度すると間隔を空ける必要があるため(全血の場合は12週間)、そう頻繁には行けないのですが、2か月ほど前に10回目を達成。記念品のガラスの器をもらうことができました。
ちなみに、献血道(もちろん造語です)において「10回」というのは一番初めの表彰対象。この先、30回、50回、70回、100回…と、はるか先まで道は続いているのです。
はたして僕はどこまで行けるのか。特に目標などは決めていませんが、これからもタイミングが合ったときには足を運ぼうかと思っています。
そして…。
かつての僕のように、何かしらの悩み・モヤモヤを抱えている人に対しては「献血に行ってみては?」と思うのです。
「人助けになった・人の命を助けた」という感覚は、語弊があることを承知で書きますが「甘美な」ものがあります。自己肯定感が高まり、ポジティブな気持ちを取り戻すことができます。
もちろん、それで悩みのすべてが解決するわけではないでしょうけれど「ほんの少しだけポジティブな気持ちを取り戻すことはできるのでは…」と思うのです。ともかく人助けになったことは事実なのですから、どう転んでも有意義であるという結果になります。
献血から帰ってきて、腕に貼られたテープを剥がしているときはいつも「助けられているのは僕の方かもしれない」などと思うのです。
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