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第9話 帰国と連隊検閲中止 | Saito Daichi

 帰国後は、戦闘衛生の技能を取得しようと補助担架教育に希望を出しました。

 その時、訓練担当陸曹から「後期教育の班付に行かないか?」と言われ、迷いました。

 部隊化学への教育枠もあったので、非常に悩みました。

 が、一番実戦的だと思い、戦闘衛生に決めました。

 しかし、班付と部隊化学の募集期間が終わった後に、戦闘衛生が新規ではなく資格保有者に対する教育だと分かり、落胆します。

 虚無期間を設けたくないので、文書に関するMOSの資格勉強を希望しました。

 これは単純に行政文書に関する書き方や見方を学ぶというものです。

 大仰に言えば偽の一般命令が下りても見抜けるという意見もありましたが、どこかに集まる訳でもなく、中隊の文書陸曹から練習問題を渡され、試験当日に受かればMOSが付与されるというものでした。

 実際、そこまで難しくもなく受かりました。

 一応、通信MOSを持っているので、民間でも電波を扱える陸上無線も取得させられましたが、丙種なのでほとんど役に立ちません。

 プライベートでは、連休中にラスベガスへの渡航を考えていました。

 今度はロサンゼルスでのトランジットと、米国本土への渡航のため「ESTA(電子認証ビザ)」が必要です。

 幸い、日本のパスポートは信頼度が高いので、直ぐに認証されました。

 問題はトランジットであり、正直、自分のつたない英語力が不安でした。

 かつては日本からベガスへの直通便がありました。

 ただ、当時はビジネスマンオンリーの便が年間に1、2回であり、一般客は搭乗できませんでした。

 しかも、グアムの3時間とは違い、全部で17時間のフライトなので、エコノミー症候群の対策が必要です。

 だからといってビジネスクラスに乗るのはもったいない気がしました。

 ベガスは元々、アメリカ国内で唯一、賭博や売春などが許された(映画ではそんなことはないが、厳密に言えばあれは違法)土地です。

 そして砂漠のど真ん中に築いたせいで、現地の乾燥や日差しも強烈です。

 砂漠なので、日中は暑く、夜間は寒いという特性を帯びていました。

 唯一の希望は、現地では元自衛官でNRAインストラクターのキャプテン仲井さんという「日本人インストラクター」が待っている、ということだけでした。

 もちろん、ホテルでも日本語は一切通用しません。

 つまり、グアムの時と違うのは、辿り着くまでが重要だということです。

 いずれにしても、またお金を貯めなければならないので、当分、先の話でした。

 事前に話を通しておいた班長や小隊長には、渡航理由を「観光」と言い張りました。

 中隊では「射撃か?」と笑われ、確実にバレていました。

 新しい中隊長が来て、「撃ちに行くのか?」と訊ねられましたが、「観光です」と言いました。

 私は代休を貰っても、面白い訓練があると中隊に「すみませんが出勤させて下さい」と休みを取り消して貰う変人であると、中隊長にも伝わっていました。

 加えて休養日には、駐屯地内の格闘指導官に市街地訓練場で色々と教えて貰ったりしていたので、そういう意味で帰国後も目立っていたのかもしれません。

 休日を利用し、在日米軍基地の警備主任を務めた方を、埼玉県の倉庫に招いて、色々と教えて頂いたりもしていました。

「何でそんなことやるの?」と言われた時もあったが、周りにどう思われようと、私は死にたくないので訓練しました。

 それが普通だと思っており、「税金を貰ってこれで良いのか」、「国民を騙しているのではないか」と考えるところがあったからです。

 他にやること、やれることがあるのなら、入隊はしない方が良いのかもしれません。

 私は資金調達や人生経験のためにも入隊しました。

 のちに警察とフランス外人部隊へと行く2名の先輩と懇意になりました。

 私は当時の格闘指導官の柔軟な思考をリスペクトしていました。

 純粋な射撃や格闘技の単純な強さだけ求めれば、他にも強い人はいます。

 しかし、いくつになっても常に新しい物を取り入れるその姿勢は、後にも先にも自衛隊ではその人だけでした。

 今考えれば、正しい姿勢を見せてくれたことに敬意を覚えました。

 これはのちに空挺団に転属したり、特殊作戦群の人間を知った後でも、「どんな肩書きや能力があっても、モラルや指導能力が伴う訳ではない」という教訓に繋がります。

 どれだけ有名な場所にいたとしても、私としては原隊であるその一般部隊で知った人達の方が、革新性があり、意欲も高かったと思います。

 もしこれを読んでいる方で、肩書きやMOSに囚われている人がいたら、「修行としては良いが、長い期間を過ごすなら人で選んだ方が良い」とアドバイスできます。

 公務員も一般的な職業も経験した今だからこそ言えます。

 しかし、当時はどうして隠れてコソコソ訓練しないといけないのか、頭の中では分かっているものの、心の中では納得できずにいました。

 そんな折、関東や東北にかけて、豪雨が続きます。

 私は連隊検閲に参加し、夜間行軍中でした。

 私は既に中隊で検閲や演習に何回か参加していました。

 日頃は訓練隊(銃剣道や持続走など、スポーツや武道を行う)に所属している同期は、今回が初めてでした。

 かわいそうなことに、行軍距離は40kmでしたが、集中豪雨により大嵐の中を山登りする様相になっていました。

 歩みを進めると、赤いライトを灯しながら、地面に倒れている隊員が増えていきます。

 側溝を溜まった水が流れていました。

 それが濁流のように溢れており、注意喚起しました。

 休憩時間中、前を歩く同期の脚をマッサージしてあげていると、なぜか私の手がパンパンに腫れ始めます。

 嵐とは全く関係ありませんが、毒虫に刺されていました。

 上司には「ドラえもんの手」と呼ばれ、手袋がはち切れんばかりに腫れたので、レンジャー帰りの隊員にナイフでの血抜きを検討されました。

 ですが、衛生面を考えて断りました。

 側溝を見ると、誰かの背嚢が流されてきたのでキャッチしました。

 再び歩き出すと、本部管理中隊長と別のナンバー中隊長が地面に倒れていました。

「中隊長! 中隊長!」と衛生や周りの隊員にライトで照らされて大声で呼び掛けられていました。

 結局、行軍は中止になりました。

 後で連隊本部の言い分を聞いたところ、「災害と人員の損耗」が理由でした。

 ただ、検閲前から「台風が近付いているから中止になるのでは」とみんなで話し合っていた記憶がありました。

 行軍後、直ぐに帰隊して連隊に戻ると、災害派遣命令が下達されました。

「関東地方で鬼怒川の堤防が決壊した」と聞いて、嫌な予感がしました。

 場所は茨城県。 

 平成27年9月に発生し、のちに「関東・東北豪雨」と呼ばれる豪雨災害でした。

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