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粟餅を食べたら、ふたたび疑問が湧いてきた──粟の御飯の調理法(令和4年12月26日、月曜日)


年内最後の実験を試みた。


国産のもち粟を使用し、12時間吸水させたのち、今回はお茶の粉末を入れ、よくかき混ぜて、炊飯器の白米おこわモードで炊いた。炊き上がったら、すりこぎで餅につき、半分はそのまま丸め、残りは粒あんをつき入れてから丸めた。


画像の手前が前者で、奥が後者である。粒あんをつき入れたのは、神武東征のおりに作られたという「つき入れ餅」の故事を思い出したからである。にわかに船出することになり、あんころ餅をこしらえる時間的余裕がないため、いっしょにつき入れたという物語になっている。


▷1 なぜ粟餅にしないのか?



粟餅はわりと簡単に調理できて、なかなか美味しく出来上がった。ということで、あらためて疑問が湧いてきた。大嘗祭・新嘗祭に「米と粟」を神前に捧げるのに際して、米が強飯であるのはまだしも、粟をなぜ粟餅のかたちで供しないのか、ということである。


原則論からいえば、神饌というのは、血縁共同体もしくは地域共同体の主食が、神から与えられた命の糧として、もっとも美味しく食される形態で、供饌されるべきもののはずである。とするならば、粟は、台湾先住民パイワン族の粟の祭祀がそうであるように、粟餅として供されるべきものではなかろうか?


ところが、現実には、少なくとも今日では、宮中新嘗祭も大嘗祭も、竹折箸では扱いにくいにもかかわらず、蒸したままの御飯(おんいい)が大前に捧げられている。なぜなのか?


歴史的に考えると、『常陸国風土記』は粟の新嘗が古代、民間に存在したことを記録している。この粟の新嘗は、台湾先住民と同様に、粟の神に粟餅を捧げる儀礼であったろうことは十分に推測できる。同時に、粟の酒も供せられたのではなかろうか?



▷2 いつ、なぜ変わったのか?


天皇の祭祀が、粟の民と米の民とを統合する象徴的儀礼だとするなら、粟の餅と米の御飯、粟の酒と米の酒を神前に供することが元々の原型だったのではないかと私は想像する。


それがいつの日か、米も粟も蒸した御飯に調理法が統一され、酒は米だけを使用した白酒・黒酒に変わったのではないか? いつ、なぜ、そのように変えられたのか?


神饌調理の重大な変革は、宮中祭祀の根底を貫いているらしい陰陽五行思想によってもたらされたのか。それとも、天照大神を至高の神と仰ぐ一神教的な考え方によって、稲の儀礼として統一されていったということなのか?


答えを探るために、もう一度、真弓常忠・皇學館大学名誉教授の著書を読み込むことにしたい。ヒントが隠されているように思うからだ。(つづく)


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