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天皇の「徳」とは何か?──「徳なき者は去れ」との要求に妥当性はない(令和6年8月21日)

岸田総理の自民党総裁としての任期が来月末で切れることから、自民党は来月、総裁選挙を実施する。他方、立憲民主党も同じく来月、代表選挙を実施する。双方に女系継承容認を公言する立候補予定者がいるようだが、皇位継承問題はどのように展開するのだろうか?

◇「徳」とは人徳ではない


いまの日本は言論は自由で、SNSの世界では「愛子さま天皇」待望論が高じて、遠慮会釈のない皇太弟批判がかまびすしい。どこまで事実が確認されているのか、読むに堪えない暴露記事があふれかえっている。

要するに、「徳なき者」に皇位継承の資格はないと叫び続けている。

しかしその要求に妥当性がないことは、以前、しつこく検証した西尾幹二先生の「雅子妃批判」で明らかである。「徳なき者は去れ」との主張は、血統主義の皇室に対して、ましてや皇太子妃には的外れだ。

歴史を顧みるなら、「徳」とはおよそ無縁な暴君が天皇史に存在したことを正史が記録している。

たとえば、雄略天皇である。『日本書紀』の記述では、きわめて冷酷・残忍で、数々の粛清・殺戮を繰り返したとされている。のちに天武天皇が命じて編纂されたのが『書紀』であり、そこに残忍さが記録されている。

優れた品格、人徳がある者が天皇だとは、『書紀』は書いていないのである。

ちなみに雄略天皇は、允恭天皇の第2皇子・安康天皇の弟君に当たる。兄から弟への兄弟継承である。

◇教育勅語の「徳」


ならばである。教育勅語に「我が皇祖皇宗、国を肇󠄁むること宏遠󠄁に、徳を樹つること深厚なり」とある「徳」とは何だろうか?

教育勅語が載る官報(明治23年10月31日)

一般には、「道義道徳」と理解される。しかしその理解では、「歴代天皇は道義道徳の理想を掲げてきた」となり、『日本書紀』の記述と矛盾が生じるばかりか、「徳なき者は去れ」と大声を張り上げる女系継承容認論を支援、促進することになる。

畏友・佐藤雉鳴さんの教育勅語論の受け売りになるが、教育勅語の「徳」とは儒教的な徳目ではない。「皇祖の御心の鏡もて天が下の民をしろしめす」という意味であり、「私という事」のない天皇統治、つまり「しらす」という意味なのである。

稲田正次『明治憲法成立史』は次のように説明している。


「けだし、祖宗の国に於けるは、その君治の天賦を重んじ、国民を愛撫するを以て心となし玉へり。いはゆる国をしらすとは、以て全国王土の義を明らかにせらるのみならず、また、君治の徳は国民を統治するにありて、一人一家に亨奉するの私事にあらざることを示されたり。これまた憲法各章の拠て以てその根本を取る所なり」(適宜、編集しました)

皇太弟に「徳」がないと喧伝して、皇位継承権を簒奪しようとするものはわが身の不明を知るべきである。




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