西尾幹二先生の御忠言を読む──どこが誤っているのか(2008年07月22日)
評論家の西尾幹二先生がこの数カ月間、月刊「WiLL」誌上で皇太子・同妃両殿下へのご忠言を展開し、話題になっています。現代の日本を代表する知性が、妃殿下の主治医を複数にせよ、と提言するだけならまだしも、療養中とされる妃殿下を「獅子身中の虫」とまでに指弾しているのですから、注目されるのは当然です。
しかし当たり前のことですが、同意するところもあれば、そうでないところもあります。西尾先生が「妃殿下問題」を深く憂えていることは痛いほど理解されるのですが、皇室問題を考えるうえでの基本的観点が少し違うのではないか、と思う点がいくつかあります。
今回は先生の「WiLL」5月号の論考「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」について考えてみます。
▽1 学歴主義とクロス
先生の論考は、「平等とか人権といった近代の理念のまったく立ち入ることのできない界域(エリア)が社会の中に存在すること」が「天皇制度の意義」だと認めるところが出発点です。
ところが、近代社会の能力主義とは異質の存在であり続けたはずの皇室に、皇太子殿下の御成婚によって「学歴主義とクロス」しました。
小和田家の人々は「学歴エリートを絵に描いたような一族の、その中でももっとも優秀なハイクラスの人材であるといわれ続けていた」のであり、「知らぬ間に能力主義が皇室の外堀を埋めてしまっていた」のでした。
「原理を異にするふたつの世界、近代を超克した理不尽なまでの伝統の世界と、個人の努力や意図が生きる能力主義の世界とがぶつかった」結果、「軋(きし)み」が始まり、「人格否定」発言が飛び出しました。
「このままでは妃殿下は鬱病になる」という予感は的中し、さらに「事態は悪化」しました。
環境調整を必要とする妃殿下の病状は容易ならざる事態だと西尾先生は指摘します。「環境を変えなければダラダラと慢性的な病状が長期にわたって日本の皇室を機能不全に落ち入れる可能性」があるからです。
問題は「1人の人間の治療に最終目的はなく、国家の安泰に本来の目的がある」のであり、「皇統の将来への憂慮の方が優先されるべきである」と先生は指摘します。
「雅子妃問題」は反天皇論者の格好のターゲットとなり、天皇制度廃止論の危険水位は上がっているが、学歴能力主義と高級官僚の家系が「反近代」の天皇家とクロスしたがゆえに起こった例外的な災厄であり、雅子妃個人の問題であって、船酔いで船に乗っていられないのなら、下船していただくほかはない、と西尾先生は言いきるのです。
▽2 「能力主義との相克」だけではない
西尾先生の問題意識はよく理解できますし、主治医を複数にし、外務省出向組を異動させる、という提案も同意できますが、妃殿下に「下船」を勧告することへの同意は躊躇されます。
なぜかと言えば、第一に、ことの本質が、近代社会の能力主義と皇室の伝統主義との相克という図式ではとらえきれない、と考えるからです。
なるほど皇位の継承は世襲であって、能力主義とは無縁ですが、近代ヨーロッパの文化を率先して受容してきたのが日本の皇室なのでした。古来、異なる多様な文化を積極的に受容し、統合してきたのが皇室の伝統です。
第二に、「学歴主義とのクロス」なら、皇后陛下にも当てはまります。
過去の皇后とは違い、旧華族出身ではない「平民」の出身で、そしてミッション系の最高学府に学び、首席で卒業されたのが皇后陛下でした。しかし独自の思索の結果、皇室の伝統を深く理解されたのだと拝察します。
だとすれば、妃殿下にも「下船」以外の可能性があり得ます。
西尾先生は「皇室は原理を異にしている」ということを強調しすぎるように私には見えます。
「別な原理」というのなら、皇后陛下の御父君がその身を置いたビジネス社会も、皇后陛下自身が学ばれたミッション・スクールも原理は異なります。しかし古来、異なる多様な原理を受容し、それらを統合し、多神教的、多宗教的文明の中心に位置してきたのが天皇なのだと思います。その意味でこそ、皇室は「異質の界域」なのでしょう。
▽3 両殿下への過度な期待
第三の問題は、皇室の伝統とは何か、そして皇太子・同妃両殿下の役割とは何か、です。
西尾先生は、「伝統に対する謙虚な番人でなければならない」ことを、今上陛下がそのことをよくわきまえ、歴史に対して敬虔に、国民に対しては仁愛を示し、祭祀を尊重、遵守しているのに対して、将来、「国家の象徴となられる」皇太子・同妃両殿下にはその自覚がおありなのか、と問いかけています。
先生が指摘するように「皇室外交」なるものが「皇室の伝統」でないことはいうまでもありません。しかし「歴史に対する敬虔さ、国民に対する仁愛」も、あえていえば、「願望」に過ぎません。
天皇の制度は英明な天皇ばかりが例外的に続いたから、古来、世界史にまれなほど長期にわたって継承されてきたのではありません。
戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)が指摘しているように、いいことばかりが重なったから、天皇制が存続してきたのではないのです。実際、日本書紀などには、統治者としての適格性を疑うような古代の天皇について記録されています。
過度な期待を持つべきではありません。
▽4 不明確な妃殿下の役割
先生は「両殿下の自覚」を問いかけていますが、将来、皇位を継承されるのは皇太子殿下であって、お二方で皇位をになわれるのではありません。
それなら妃殿下はどのような役割を果たすべきなのか、じつはそれが不明確です。
西尾先生は「祭祀の尊重と遵守」に言及しています。宮中祭祀こそ皇室の伝統ですが、祭祀をみずから行うのは天皇お一人です。
戦前なら皇室祭祀令の定めがあり、妃殿下の拝礼も決まっていました。西尾先生は妃殿下が平成15年以降、「祭祀にいっさいご出席ではない」と書いていますが、昭和50年代以降、側近らによって皇后、皇太子、同妃の御代拝の機会が奪われたというのが実態です。責められるべきは妃殿下ではなく、宮内官僚です。
皇位を継承するのは天皇お一人です。皇位は皇祖神の神意に基づきます。「皇統の移動」などというものは、私たち民草が君臣の別をわきまえずに論ずるまでもないことです。祭祀王たるお立場を継承する第1番目の地位についてくださったことで、国民としては十分ではないか、と私は考えます。
葦津が指摘しているように、北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』以来、万一、仁政が行われ難きときには、皇位は傍系の仁者に移る、と認められてきました。しかしそれは神の領域です。
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