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血統主義と徳治主義の調和──西尾論文批判の続き(2008年09月16日)

◇「世襲」を言いつつ「徳治」を求める矛盾

 西尾幹二論文批判を続けます。今週は「正論」9月号に載った、新田均・皇學館大学教授による西尾批判を取り上げます。

 新田論文はいつになく抑制が効いた、しかし、さすが神道学者ならではの大論文です。

「徳なき者は去れ」

 と東宮に迫る西尾論文に対して、新田論文は、一方で皇位の世襲主義をいいつつ、徳治主義を要求するのは矛盾であるばかりでなく、矛盾を突かれることを恐れて文章表現を書き換え、隠蔽しているのは小賢しい、とまずは正しく指摘しています。

 西尾論文の矛盾・破綻はこの指摘に尽きるのですが、新田論文はさらに西尾論文がほったらかしにした、血統主義と徳治主義との関係如何について筆を進め、歴史上において両者の調和点をぎりぎりのところで模索した北畠親房の思想を紹介しています。

 結論的に新田論文は、天皇が国民のために祈るだけでなく、国民が天皇のために祈る祭祀国家の側面を強調し、伝統に対する謙虚な学習者ですらない人物の言葉によって、国民の祈りの伝統が断絶する国家的な危機の訪れを危惧し、論者や国民に祈りを求めています。

◇「祈り」のほかに求められること

 まったく仰せの通りなのですが、ニーチェ研究を50年も続けてきたらしい研究者がいまさら神への祈りを捧げる可能性は高くはないだろうし、日本人自身が明治以来、百年以上も、啓蒙主義にどっぷりと浸かってきたからこそ、

「(雑誌論文の)読者のほとんどすべてが西尾論文に賛成」

 という現象も起きるのでしょう。

 それならどうすればいいのか? 求められているのは、新田教授が指摘する国民の祈りのほかに2点あります。1つは天皇・皇室に関する情報の普及。もう1つは議論の活性化です。月並みといえば月並みですが、これが案外、難しいのです。

 前者についていえば、天皇・皇室に詳しい知識人による社会的な活動がきわめて乏しいという現実があります。新田教授のケースはきわめてまれで、それだけにその存在は貴重なのですが、世に神道学者と呼ばれる人たちは怠慢といいたくなるほど出不精であるだけでなく、ほかの学問分野と比較して明らかに、戦後社会からは敬遠され、軽んじられてきたのです。今日の状況はそのツケというべきです。

 後者についていえば、西尾論文は絶好の機会を提供したともいえます。マスコミの世界では皇室番組は視聴率を稼ぐための「色もの」扱いです。話題を練り上げ、読者を挑発し、ビジネスを展開するのは商業ジャーナリズムの常套手段です。今回の場合、西尾論文が一冊にまとまったようですが、今後、前号で紹介したような田中卓皇學館大学名誉教授や新田教授の批判を受けて、どのように議論が深まっていくのか、それとも話題づくりで終わるのか、見定めたいと思います。

◇「御代拝」制度の復活を求める

 蛇足ですが、最後に天皇の祭祀について補足します。

 新田論文は

「『信仰』という観点から、皇太子殿下のことを云々するのであれば、本質的な問題点は『祭祀にご熱心なのかどうか』『祭祀が妨げられているような状況におかれているのかどうか』という一点でしかあり得ない」

 と指摘しています。

 当メルマガの読者ならすでにご承知のように、まさに問題点はここにあります。

 繰り返しになりますが、昭和40年代以降、皇室祭祀の破壊がほかならぬ側近によって進められてきました。西尾論文は、皇太子妃殿下が平成15年以降、

「祭祀にいっさいご出席ではない」

 と何度も批判していますが、昭和天皇の側近の日記などによれば、昭和50年8月15日に宮内庁長官室で会議が開かれ、皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝の制度が廃止されたのです。

 いまもそのままになっているところに問題があります。

 皇室祭祀の正常化を国の基本問題として速やかに模索する必要があります。

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