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新嘗祭=「国民統合の儀礼」が理解されない理由(令和4年11月23日、新嘗祭)



今日は新嘗祭だが、生憎の雨である。予報では、都心では土砂降り。夜は10度近くまで気温が下がり、5メートル前後の北風が吹く。宮中新嘗祭が行われる神嘉殿には暖房はない。陛下をはじめ、関係者のご苦労はいかばかりかと拝察される。


さて、前回まで、宮中新嘗祭の粟の御飯を再現する実験を繰り返し、それによって分かったことを書いてきた。台湾先住民の粟の祭祀との比較から、天皇の「米と粟の祭祀」が「国民統合の儀礼」であることを再確認することにもなった。


そして、新たな疑問がいくつか浮かび上がってきたのであった。


ひとつは、民間における「米の新嘗祭」が五穀豊穣を祈る収穫儀礼であるとしても、なぜ天皇の「米と粟の新嘗祭」が、収穫儀礼というような位置づけしかされないのかである。


平成の大嘗祭のとき、宮内庁による記録は、大嘗祭について、次のようにまとめている。政府・内閣官房の解説も大同小異である。


「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇陛下が即位の後、はじめて、大嘗宮において、悠紀主基両地方の斎田から収穫した新穀を、皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式」


令和の大嘗祭も、この解釈が踏襲されたが、ここには「粟」はない。だから、「国家・国民のために祈念」という説明にとどまり、「国民統合の祈り」であるというところに考えが及ばないでいる。宗教的ルーツの儀礼であり、国家儀礼であるという理解には遠い。だから、政教分離問題にも発展するのである。


皇位継承直後に行われる天皇一世一度の新嘗祭が大嘗祭だから、毎秋の新嘗祭も、政教分離問題がつきまとうことになる。


第一の疑問は、なぜ「粟」の存在を無視するのかである。それどころか、「粟の新嘗祭」は宮中以外にほとんど存在しない。『常陸国風土記』に記されているように、かつては地方には「粟の新嘗」があったはずなのに、いまではほとんど聞かない。なぜなのか。いつ、どのようにして、消えたのか、である。


神社の神紋や社殿の意匠に「粟」が使われていることからすると、「粟の新嘗」が民間に「あった」ことは間違いないはずなのに、神社関係者でさえ、「新嘗祭は稲の祭り」と信じ込んでいる。いつからそういう理解に固まるようになったのだろうか。


各地に「粟」とつく地名があるのに、米など穫れないはずの山間地域でさえ、「稲の祭り」になってしまったのは、いつのころのことなのか。なぜなのか。


「粟」が消えたのは、もともと「米」とは対立していた、「粟」を主食とする「粟」の文化圏が消えてしまったということである。「粟」の食文化が「米」の食文化に駆逐されたということだろう。


せめて神社の祭りに「粟」が残されていれば、と願うのだが、無い物ねだりになっている。「米」ならいざ知らず、「粟」について語る神社関係者を私はほとんど知らない。


記紀神話には稲作起源説話がふたつあり、五穀誕生の物語では、米と粟は同列に扱われている。他方、斎庭の稲穂の神勅は「米」オンリーである。つまり、今日では後者ばかりが語られることになっている。


つまり、天照大神の神勅が席巻することになったということである。天照大神以前の多神教的世界が忘れられ、一神教的な神道世界が構築され、その結果、「粟」が消えていったということではないだろうか。


なぜそんなことが起きたのか。誰がそうしたのか、というと、私の脳裏にひとりの人物が浮かび上がる。本居宣長である。『直毘霊』の冒頭は「日本は天照大神がお生まれになった国だ」という一節で始まる。


大胆にいえば、宣長の一神教的解釈は、日本が欧米キリスト教世界と渡り合い、近代化を推進していく大きなエネルギーになったと肯定的に解釈される反面、多神教的世界が失われる原因を作ったとはいえないだろうか。


一神教的神道理解は戦前の文部省の『国体の本義』にも描かれ、戦時中はキリスト教世界との抜き差しならない対立の構図を作ったことは、戦時中、アメリカ陸軍省が作製したプロパガンダ映画を見ればよく分かる。アメリカが考える「軍国主義・超国家主義」の背後には一神教的神道理解がある。


未曾有の敗戦・占領を経てもなお、日本人は宣長的な一神教的神道理解を克服できないでいるのではないか。多神教的神道理解こそ神道本来の世界であるはずなのに。陛下が「米と粟の祭り」をなさることの重要さがますます身に染みるのである。


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