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鎌倉のセンセの思い出 4 苦渋の決断のとき


忘れもしない、平成9年4月2日、愛媛玉串料訴訟の最高裁判決が下された。

国家と神道とが結びついた「国家神道」が神社参拝強制や宗教迫害を招き、「侵略戦争」の元凶となったという「反ヤスクニ」史観が前提だった。その一方的な歴史観がほかならぬ最高裁の判決に明記された。その意味はこの上もなく大きい。

むろん歴史の事実なら問題はないが、最高裁は事実認定を明らかに誤っていた。センセの父君たちこそ「国家神道」と闘った当事者である。それなのに「被害者」が「加害者」に逆転させられている。戦後もしかり。困難な政教分離裁判を強いられ、いわれのない攻撃から守るために積み重ねられてきた努力がすべて水泡に帰すような不当判決だった。

〈これはたいへんなことになった〉。私は思った。

ところが、朝、顔を合わせると、センセはにこやかに笑っていた。「よく笑っていられますね」。「笑うしかないから、笑っている」。落胆はありありだった。

センセは当時、神社関係の専門紙の経営者だった。であれば当然、強力な打開策を講じたい。でも、出来なかった。やろうと思っても、人材がいないからだ。しかもセンセは「編集権の独立」を重視していた。編集に介入はできない。センセはみずから手足を縛っていた。無念だったに違いない。

いっこうに裁判批判に着手しようとしない編集責任者(故人)を、私は不遜にもどやしつけた。〈不甲斐ない〉と強く思ったからだが、無駄だった。人には持って生まれた能力の限界がある。私は私で、自分でやろうと、このとき心に決めた。

センセも決断のときを迎えていた。編集方針の転換である。苦渋の決断だったろう。

センセの新聞は、創刊以来、「背広の神道人」が作ってきたという経緯がある。単なる業界紙ではない。センセの父君が、終戦直後、鈴木貫太郎らに直接取材を重ね、終戦の秘史を明らかにした、知られざる、優れた業績もある。

しかし、今や昔、父君はすでに鬼籍の人となり、あとに続く人材が枯渇し、業界紙化していた。「あの人(父君のこと)は神職じゃねえだろ」。社内で公然と語られるようになっていた。

記者たちには神道系大学の出身者が多い。センセの新聞は独立の株式会社だが、それでは部下たちは神職としてのキャリアが積めない。そのため「出向」扱いとされた。センセの温情がそうさせたのだろうが、記者の客観中立性は失われた。

というより、部下たちは新聞とは何かが理解できない。あるとき、かつての部下が私を訪ねてきて、いみじくもこう告白し、目を輝かせた。「スクープの意味が分かりましたよ」。

自分が書いた記事がマスメディアに大きく注目された感激を素直に語っていたのだが、逆にいえば、この部下はそれまで、どこにもない新しい情報を読者に提供することの意味を考えずに、記事を書いていたことになる。それは新聞ではない。記者ではない。

センセは経営者であって、編集には介入しないという立場を終始、貫いていた。しかし、そのことを部下たちはどれほど理解できただろうか? 古い社員がいなくなり、編集部は世代交代していた。そしてセンセは「社会部新聞」への方向転換を打ち出さざるを得なくなった。

のちにセンセ自身が社を去ることになったとき、「オレがもっと編集に口出ししていれば良かったかも知れない」と、センセは悔しそうに私に語った。あとの祭りである。

父君の25年祭がこぢんまりと行われたとき、センセに呼ばれたかつての部下は私ひとりだった。「社会部新聞」化にもっとも抵抗したのが私なのに。

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