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鎌倉のセンセの思い出 5 私を育てた人(令和6年4月28日)

センセに出会ったのは、私が総合情報誌の編集記者をしていたころだった。全ページをスクープで埋める月刊誌で、若気の至りもあって、かなりしつこい取材をしていたのだが、印象にも残り、気に入ってもくれたらしい。ネタを取りに行くと、嫌な顔ひとつせずに対応してくれた。

◇靖国神社宮司インタビュー

昭和60年の夏、「戦後40年」で靖国問題が話題となっていた。4ページの記事を予定し、通信社の社会部デスクに発注済みだった。下取材は私が行った。終戦の日には中曽根首相が「公式参拝」し、大騒動に発展するのだが、そればかりではない。3日前には日航ジャンボ機墜落事故が起きた。

てんやわんやで、筆者は雑誌記事を書いているどころではない。粗原稿に手を入れ、記事を完成させたのは私だった。

当時の靖国問題といえば、政治部の仕事だった。ニュースといえば、官邸周辺に取材したものばかりで、靖国神社に直接取材した記事は見当たらなかった。

それじゃあ、第2段目の企画で、宮司インタビューをやろうということになったのだが、ガードが固かった。大名家の血筋で、父親は元宮内大臣、そして本人は頑固者といわれる宮司さまは承諾してくれない。センセに泣きついて、電話番号を教えてもらい、夜、電話をかけ、本人を泣き落とそうとしたが、結局は権宮司インタビューに落ち着いた。ナンバー2が「分祀はあり得ない」と断言するインタビュー記事は、センセの働きかけがなければ実現しなかっただろう。

◇腕を磨かせてもらった

やがて因果はめぐり、センセのもとで働くことになった私だが、門外漢そのものだったから、神道の世界について、一から猛勉強せざるを得なかった。センセからもらった利用許可証があったので、渋谷の大学図書館で、毎日、夜遅くまで、冷暖房のない書庫にこもって古今の図書を漁った。

月一回の連載を書くのに、とことん資料を読み漁り、現地取材し、記事を書き上げるのだが、それでももしかしたら間違いがあるかも知れない。最初は大学教授(社のOB)に監修をお願いしたが、忙しい人でアテにならない。それで、センセに私が書いたものはすべて読んでもらうことにした。とはいえ、もしものときに責任を押し付けるわけにはいかない。ますます学問を深めなければならなくなった。

センセにはずいぶんと自由に仕事をさせてもらった。記事を書くスタイルも、センセの元で磨かせてもらった。おかげで、全国紙の月刊誌に頻繁に寄稿し、単行本を書くこともできた。センセが目をかけてくれたおかげである。感謝の言葉しかない。

◇すべてお見通し

センセも私も社を離れたあと、「泊まりに来たら」というお誘いに乗って、鎌倉のご自宅を訪ねたことが一度だけある。父君がご存命のころは庭付きの平屋の戸建てだった。センセが幼少のころ、病弱で、長生きできないと診断され、転地療法のために都心から移り住んだ思い出深い家だったが、父君亡きあと、近くのマンションに転居されていた。

「最近は焼酎を呑んでる」と仰せだったので、屋久島の「三岳」をぶら下げて、お邪魔した。センセは私の一本気な性分を心配し、のめり込みすぎて、家庭を顧みないようなことはしないようにと諭された。すべてお見通しだった。センセ自身の体験に基づく忠告でもあったらしい。それもあって、「今度は奥さんも連れて、泊まりにいらっしゃい」と勧めてくれたのだろうが、果たせなかった。

「三岳」をいっしょに飲み、その晩は祭壇のある部屋で休ませていただいた。それもまた得難い体験だった。五柱(五座)の神名が記された中央には、天照大神ではなく、天之御中主大神の御名があった。川面凡児の神学に基づいているとの説明だった。

翌朝、白々と夜が明けるころ、襖がカリカリと音を立てた。センセの愛犬が私を起こしにやってきた。その愛犬もいまはいないという。

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