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一条兼良は「大嘗祭の祭神は皇祖天照大神」と主張していない──真弓忠常「大嘗祭」論の資料の誤読(令和4年12月18日、日曜日)


真弓常忠・皇學館大学名誉教授(故人)は著書の『大嘗祭』で、大嘗祭の大嘗宮の儀で祀られる神について諸説あることを解説し、その筆頭に天照大神説を掲げている。その根拠とされているのが、室町時代の公卿で、古今の有職故実に通じた不世出の古典学者・一条兼良の「代始和抄」であった。


兼良といえば、青年期に将軍から「白馬の節会はなぜアオウマノセチエと読むのか?」と訊ねられ、古典を引用して、たちどころに解答し、感心されたという逸話が残るほど、博覧強記の才人である。「代始和抄」は即位大嘗祭の解説書である。


当ブログは、令和の御代替わりのおり、これを何度か取り上げたのだが、泣く子も黙る兼良の解説書が「大嘗祭の祭神=天照大神」説の根拠となっているとあっては、これはあらためて読み返し、確認するしかない。


結論からいえば、「天照大神」説は資料の誤読ではないだろうか? 天照大神一神教に固まる研究者たちが兼良の神通力にあやかり、いわば虎の威を借りて、自説を主張しているのではないかとさえ疑われる。


▷「代始和抄」に祭神論はない


「代始和抄」の写しが国会図書館のデジタルコレクションに納められている。もともとは宮内大臣・渡辺千秋の蔵書だったものらしい。90ページほどに、御譲位、御即位、御禊行幸、大嘗会の4項目について、分かりやすく説明している。


大嘗宮の儀については、「大嘗会のこと」の後半に登場する。「中の丑の日」に「舞姫参入帳台の試し」が行われるとの説明に続き、「卯の日」の大嘗宮の儀に関する用語が説明される。そして廻立殿、膳殿、嘗殿などが簡単に説明されたあと、真弓先生も引用された一文が続いている。


「まさしく天照おほん神をおろし奉りて、天子みづから神食をすすめ申さるることなれば、一代一度の重事これにすぐべからず」


これをどう解釈すれば良いのかだが、真弓先生の著書には何の説明もない。


兼良は、皇祖天照大神をお迎えし、天皇が手づから供饌されるのだから、一世一度の重儀だと述べているのであって、祭神論を展開しているわけではない。天皇の祭りなら、皇祖を祀ることはいうまでもないが、皇祖のみが祀られるという根拠とすべきかどうか。大嘗祭の神は天照大神がすべてなのかどうか?


▷天照大神祭神論には無理がある


兼良はこのくだりで、「重事たるによりて、委しく記すに及ばず」「口伝さまざまなれば、たやすく書きのすることあたはず」と克明な説明を意識的に避けている。実際、祭神論のほか、供饌の儀も、御告文も、神饌御親供も、具体的な説明はない。博識の兼良にして、文章化していない事実があるということだ。


つまり、兼良の上記の一文をもって、皇祖天照大神のみを祀るという祭神論の根拠とすることには無理があるのではないか? だからこそ、真弓先生は、説を紹介するのみで、考察を加えなかったのだろう。


真弓先生はそのあと天皇の御告文(申し詞)に「天照大神、又天神地祇諸神明」(後鳥羽院宸記)とあることを根拠に、「天照大神はじめ天神地祇」を大嘗宮の祭神とする説は「そのまま肯定できる」と素直に認めているが、これは客観的事実に基づくストレートな解釈で、まったくその通りだと同意できる。


逆に、新帝が「伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく」と奏上される事実が分かっていながら、祭神は天照大神だけと研究者たちが言い張る理由が私には分からない。


何度も繰り返し書いてきたように、天照大神のみを祀るのなら、大嘗祭の大嘗宮も新嘗祭の神嘉殿も不要だろう。祭場は皇祖を祀る賢所で十分である。現に皇族方のなかには、大嘗宮不要論さえあるが、研究者たちの天照大神祭神論に引きづられた結果ではないか? 天神地祇を祀るのなら、賢所での大嘗祭はあり得ないし、あってはならない。


▷隠されているもうひとつの論理


大嘗祭は天孫降臨神話を根拠に、斎庭の稲穂の神勅に基づいて厳修されると理解するのは一見、論理的であり、したがって大嘗祭の祭神=天照大神論とすることも演繹的にリーズナブルである。


しかしながら、それだけなら、新帝が米のほかに粟の新穀を供して、神人共食する必要はない。そんなことは少し考えれば分かることで、だから天照大神論者は「粟」を無視しようとするのだろう。理解の外にある事実は捻じ曲げられ、消去される。


大嘗祭には天孫降臨神話とは異なる、もうひとつ別の論理が隠されている。田中初夫・東京家政学院短大教授が『践祚大嘗祭 研究篇』で指摘しているように、古代律令「神祇令」の「即位の条」に、「およそ天皇、位に即きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記されているのがそれであろう。


天皇には皇祖神の子孫というお立場だけでなく、国と民をひとつに統合するスメラミコトという機能がある。ならば、天神地祇を祭らなければならない。真弓先生が平野孝国を引用し、「あらゆる神を祀って頂く御資格」に言及されているのがそれである。


だから、天皇の祝詞は「天照大神、また天神地祇、諸神明に」となり、神饌は米のみならず粟も捧げられるのではないか? 研究者たちがいつまで経っても、天孫降臨・稲穂の神勅にばかりこだわり、大嘗祭の神=皇祖天照大神論に固執しているのは、知的怠慢、思考停止以外のなにものでもない。兼良を誤読し、引用するなど、もってのほかであろう。

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