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完璧を求めすぎない

きのうは雨模様で肌寒かった関東。今日は一変して最高気温28度の夏日を観測しました。ただ風が冷たいので体感温度としてはそこまで暑くはないですね……と天気のお話からはじめてしまうのはあまりに平凡な冒頭だ。

と、思うがしかし。

やっぱり天気は重要です。きのうはあるご縁で農作業のお手伝いをさせていただきました。雨がザーザーで出来ることが限られていたので残念でしたが、知らない世界を垣間見ることができ、貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。

その前日。一昨日(木)は地元の経営者さんが集うイベントに参加し、こちらも非常に勉強になる有意義なお時間を過ごさせていただきました。

とある企業の代表によるトークイベントがメインだったのですが、そのあとでワインやお肉を食べながらの交流会がおこなわれ、名刺を交換したりとこれまで体験したことのないワクワク感に駆られておりました。

だれもかれも気さくで話しやすく、現在のこと、未来のこと、それぞれの代表やフリーランスの方の考えや抱えている問題などを話し合うことができました。皆さま、その節は親切にしてくださりありがとうございました。

さて本日のテーマ。

完璧を求めすぎない、について。

上記のイベントで登壇された代表のお話をきいて、その勢いに圧巻されながら猫目はふと思ったんです。

完璧を求めすぎるのってどうなのだろう、と。

登壇されていた代表はどちらかというと完璧を求めず、強い意志と勢いでこれまでの苦難を乗り越えていらっしゃるような方でした。

たしかに完璧を求めるのは悪いことではありません。むしろ、必要なときもあるでしょう。しかし、なにかにつけて完璧を求めてしまうのはやはり問題なのでないかと疑問を抱きました。

ちなみに猫目はどちらかというと完璧主義です。とくに文章を書くとき、猫知らずのうちに完璧を求めています。ただしそこに本当の完璧など存在しません。文章というのはそういうものだと個人的に思っています。

いくら推敲したところで完璧な文章になんてならない。その現実に時折、心が折れそうになります。

が、やっぱり最近思うんですよね。

完璧じゃないほうが人間らしいのではないか。
生きてるってそういうことなんじゃないか。

文章だけじゃなく、すべてのものごとは完璧ではない。そのはずです。たしかに医者は正確な知見と技術で手術を遂行、成功させなくてはいけない。それでもたまにミスをする。お腹のなかに器具をいれたまま閉じて(縫合)しまうようなミスから、大事な血管を傷つけてしまうミスなど、程度を踏まえなければ案外にミスは起こる。

けれど、それは人間なのだから仕方のないことだとも思う。反面、命を扱っているのだから失敗は許されないという概念も生まれる。

これがAIロボットだったら完璧が求められ、完璧じゃないと許されず、完璧かどうかで価値の有る無しが決まってしまう。完璧じゃないAIロボットなど無価値とみなされてしまう。だが、おもしろいことにそのAIを生みだしたのは人間だ。

私たちの身の回りにはたくさんの成功と失敗があります。それらのふたを1つ1つあけていくと成功だけで出来あがっているものは少ない。少ないというより無いように思う。たまたま運が良くてうまくいっていたとしても、それが今後ずっとそうであるとは限らない。そんな保証はどこにもないんです。

また、近年ではほとんどの製品が完璧(ユーザーの理想)に近いものになりました。そうなると、むしろ完璧じゃない、人間らしいモノのほうに価値が推移します。ここまでくると「完璧さ」は価値を食らう害虫かなにかのように扱われてしまうなんてことも出てきそうです。

そもそも人間が完璧じゃないのだから、完璧なモノに感情移入や共感を示すことはむずかしいように思われます。どちらかというと、私たちは不完全なモノに惹かれ、共感するのではないでしょうか。

失敗して苦悩しているひとを応援したくなるのは、このあたりが関係しているのでしょう。出木杉くんではなく、のび太くんにファンが多いのもおそらくこれだ。

では、完璧を一切求めずに失敗ばかりしていればいいのかというとそれも違います。失敗は、それを受けいれて乗り越えようとする誠実さがあってはじめて他者に「応援したい」と思われる要素になります。

失敗ばかりして、なんの反省も見せず、なんなら失敗を失敗と受けいれずに無かったことにしたり、勢いだけで乗りこえようとするのはよろしくない。

と、猫目は思います。

最近お会いしたAさんはつねにたくさんの本を読まれています。知識の質も高く、熱心に情報を吸収していて猫目はこの方をとても尊敬しています。

彼女は言います。

「失敗をしたくないのでも、恐れているのでもなく、失敗したらあとがないから失敗するわけにはいかない。だから知識を蓄えている」

「本にはこれまで先人たち(専門家たち)が積みあげてきた知恵と実践とそれに伴う失敗、成功が記されている。そこから知見を得るのは効率的であるし、失敗しないために不可欠だ」

なるほど。
猫目は肯きました。

ただ、彼女は机に齧りついて多くの書物から知識を得て、知恵を働かせていますが現場には行きません。

そこに関して猫目は少し引っかかることがありました。それというのが、本に書かれていることがすべてではないという点です。とくにその対象が生きもの(動物)の場合、その本に掲載されている情報は、あらゆる飼育技術の中のごくわずかな部分でしかありません。

動物が大好きでたまらない猫目は、これまで多様な動物関係の職に就いてきました。猫目の知っている動物飼育関係者の方たちは、つねにあたらしい飼育技術とその向上に努めています。

ある水族館の獣医さんは「教科書よりも大切なのは現場の声(生きもの含め)だ」とおっしゃられました。

そのとき、たしか猫目は体験実習中で水族館バックヤードで2人、ペンギンの卵を眺めながら話をしていました。

「教科書に書かれている事柄はたしかに意味がある。これまでの歴史を知ることもできる。ほかの施設でおこなわれている技術を知ることもできる。でもそれはほんの一部であって基礎の部分」

「我われに個性があるように、生きものたちにもそれぞれの個性がある。すべての生きものが同じ技術によって最適に暮らせるか(飼育できるか)というとそうでもない」

だから

「今いる現場をきちんと見て判断し、思考錯誤していくしかない。その場その環境に合った飼育方法を確立することがなによりの課題であって、教科書通りに模型をつくることでが目的ではない

孵卵器の前にひろげられていたノートにびっしり書かれたボールペンの文字。英語だかドイツ語だか分からない細かい文字が、獣医さんの誠実さをあらわしているようでした。

(無料素材)

完璧すぎるのもどうなのだろう?
失敗無しで成功を手にすることはできるのか?

今日はそういったテーマでお話を進めさせていただきました。はっきりした答えが出なかったのもまた人間らしさだ。そんな言いわけを挟みながら、やはり完璧を追求しすぎるのは問題だな、と思いなおした猫目でした。

完璧な講演では質問が少なく、
余白のある講演には多くの質問が飛びかう。

企業の面接時。
完璧すぎると面接官から質問されない。
だから、履歴書にも経歴書にも謎を散りばめろ。

隙だとか、余白だとか、そういうものがあったほうがコミュニケーションの輪が広がっていく。

そう猫目に教えてくれたのは、どなたでしたっけ。


本日もさいごまでお付き合いいただきありがとうございました!



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