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なぜ小説は売れないのか

 小説の疎まれる最もたる点は「速度」にあると思います。スピードです。なぜ速度がそこまで重要なのか。それは現代の速度が昔よりも速く(むしろ高速に)流れているからに他ならないのです。

 流れの速い時代では、どうしたって文章は疎まれる傾向にあります。ことに「満開の桜を両側に川辺を駆け出す。雲は梢を通して桃色に染まり、湿り気を含んだ春の空気にはどこか……」という小説の描写読者に一定のエネルギーを要します。のみならず私たちが日常的に描写をすることはあまりなく、なんとなく過ぎて行く桜並木を、なんとなく綺麗と思い、なんとなく隣の恋人の横顔を見つめてしまうことでしょう。

 つまり人は日常的に「描写」をしません。そういう大勢がどうして小説の描写を鮮明に、そして瞬時に、思い起こすことが出来るでしょう。描写は読み込むのに時間がかかるのです。

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 ここで映像について考えてみます。

 映画やテレビなどの「映像」は美しく鮮明です。先の小説の描写である「満開の桜並木を滑走する」を映像なら、わずか3秒です。わずか3秒で美しい桜と微風、そして躍動を感じることが可能です。そこにエネルギーは使いません。文字を具現化する必要がないからです。頭で想像せずとも映画は親切にも私たちに景色を映し出してくれる。ありありと。速やかに情景を運んでくれるのです。

 そうした「映像」は現代で映画館のスクリーンや液晶テレビに留まりません。その代表にYouTubeがあります。AmazonにNetflix にU-NEXT、その他いろいろあります。揃っています。そういうスマホの小さな画面から私たちは大量の情報を仕入れることが出来ます。

 何もわざわざ小説から提議を受けなくとも、世界中の学者の意見や思考はスマホひとつで垣間見れるのです。便利な世の中です。

 ニュースは新聞よりもTVのニュース番組を見ます。心理学者の論文は数十頁にも渡るので有能なるYouTuberの解説を聴きます。

 以前、私はとあるエンジニアさんにこう質問をしました。
「どうして小説を読まないのですか?」
 すると彼はスマホに視線を落としながら、
「僕は速読が出来ないからね」
 と言います。さらに彼の続けるところによると、
「まあ文学に興味はあるけど最近は小説を読まない」
 なんでも彼は大学生の頃にはヨーロッパ文学にかなり関心を寄せて、自室に籠りもひたすら小説を読んでいたそうです。

「どうして今は小説を読まないのですか?」

 そういう私の執拗な質問に、彼の解答はあまりに単純なものでした。ようやくスマホの画面から視線を外した彼は、何か微笑を洩らしながらこう答えます。

「ヒマがないから」

「なるほど。時間がないから小説を読まない。なら、時間に余裕があれば小説を読むのですね?」

「そりゃあヒマだったら読みたいよ」

「映画もヒマがあれば観に行きますか?」

ああ映画は先週行ったんだ。○○監督の△△を見にさ。レイトショーは人が少なくていいよ

「レイトショーということは仕事帰りか何かに行かれたのですか?」

そうそう。残業して疲れちゃったから映画でも見ようと思ってね

 ここで注目すべきワードは彼が「残業で疲れている」ということです。残業で疲れて翌日も仕事だという彼に「時間の空白」など無かったはずです。それなのに彼は敢えて「映画で疲れを癒そう」としています。

 小説は時間的余裕がないと読まない。が、映画は仕事帰りのクタクタに疲弊した身体に鞭を打ってでも行きたくなる・・・ということになりますね。

 さらに彼は続けます。前のテレビモニターにYouTubeを接続して。

「だってほら、小説は目が疲れるし」
「なるほど。たしかに文字を追うのは目が疲れますよね」

 60インチのモニターには彼の選択によって映し出された或るお笑い芸人の教育系YouTubeが流れます。中田敦彦さんのYouTubeは私も日頃愛聴しているので、自然とそちらに視線が向いてしまいした。

 彼は今しがた、「目が疲弊する」と言いました。ここで一つの疑問が浮かびあがります。では映像で目は疲れないのか、という疑問です。科学的には映像で目を駆使することが証明されている。彼の言葉はその事実と相反する結果となります。もちろん文字を追うことに疲労を感じるのも当然です。

 私は、彼の発言した「目が疲れる」と言った言葉の意味を、勝手ながらこのように解釈しました。

「頭が疲れるから」

 彼の言葉に秘められているのはこちらの方ではないでしょうか。頭が疲弊するから。そうです。小説は、描写や情景や登場人物の台詞から何からなにまで正確に把握するのに一定以上の脳のエネルギー(思考や想像)を使います。つまり時間もかかれば頭も使う訳ですね。それでは仕事でヘトヘトに疲れた頭で「よし本を読もう」という気もなかなか起こらないのかもしれません。

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 そもそも日本(アジアと言ってもいいかもしれない)の労働時間は他国と比べて長い傾向にあります。ヨーロッパ諸国で読書をする人が多いのは一理にそういう点が加味されているのかもしれません。

 私は或るニュース番組でイギリスの駅前(駅名や都市は忘れてしまいました)の情景が写し出されるのを何となしに見ていて、ふと違和感を覚えたことがあります。たしか2、3年前のことでした。

 画面のイギリス人たちは駅前で歩きながら、またはバス停にてバスの来るのを待ちながら「本」を手にしていたのです。もちろんスマホを手にする人も映っていました。しかしこの光景を目にした私は「おや?」と首を傾げずにはいられませんでした。

 そういう違和感というのは私に「一昔前」の情景を思わせました。
 普段から私は電車を利用する際に、車両にどれほどの人数の乗客が居て、どれくらいの人たちがスマホを手にし、また、どのくらいの人が本や新聞紙を広げているのかを見てきました。統計というにはあまりに信用ならないデータです。が、そういうことを観察しながら電車にゆられていました。そして・・・

スマートフォン 《4/5》
小説や新聞   《一車両に0乃至1,2人》
手ぶらな人(耳にイヤホン含む) 《1/5》

・・・という結果をやんわりと得ました。繰り返します。やんわりとです。私はそもそも毎日のように電車を利用していません。時間も疎らで統計とは程遠い結果です。しかし私はこういう事実に少なからず「時代」を感じました。

 車内がこういう状況なので、無論駅構内に歩きスマホはあれど、二宮金次郎は一人も見当たりませんでした。にもかかわらず、私のたまたま目にしたイギリスの駅前には本を片手に(もう片方でドリンクをもっている方が多かったと記憶しています)した方の数が圧倒的に目立ちました。

 これはどうも私の中の一昔前の情景でした。そういう彼らは小説からのみ得られる愉悦を正しく理解しているようにも思われました。それは小説が私たちに与える「思考力」や「想像力」それから「他人の人生を覗き見ることによる《経験値の向上》」などの関係と深く関わっています。

 人は外的な力の他に自分で0から想像することは不可能です。私はこれをマーク・トウェイン著の『人間とは何か』より納得を得たところです。こちらの書物は非常に私の感心を惹く著書でした。おすすめです。

 自分の経験値を正確に増やすには、他者の人生観を見る(借りる)他にありません。そこで一番の近道なのが「小説」のはずです。小説はまったく関係のない他者の人生を、まったく関係のない私(読者)が知ることの出来る優れた材料でもあるのです。

 小説を読むのは時間と頭を使います。長くなってしまいましたが結論です。「なぜ小説は売れないのか」それはひと言に、こうです。

忙しない時代に於いて時間は最重要で、時間と脳の消費が激しい小説は「億劫」だから。

 「小説がつまらない」と、私は思いません。むしろ私は小説と映像はそれぞれに独立した楽しみ方があると思っています。どちらも決して引けを取りません。しかし今後「小説を読もう」と思ってもらうには小説への開拓が必要となってくる気もします。

 残念ながら私には「新しいジャンル」の小説が何か、未だにつかめていません。これだけ多方面に創作の飛躍する時代です。個性がもはや個性では無くなっています。個性は時に虚しく、情報の波に呑み込まれてしまう。

 1809ー1849年を生きた小説の開拓者『Edgar Allan poe』は数々の実験を小説の中に試みてきました。そうして出来たジャンルが『探偵小説』です。しかもポーは当時編集者をしていたこともあり、ことに彼の読者へ対するエンターテインメント精神の追求は留まることを知らなかった。『探偵小説』という概念は今日では当然のごとく私たちの頭に刻み込まれています。が、あの時代の人たちにとって『探偵小説』というのはまったく新しいジャンルだったのです。

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 今後の小説に何をプラスするべきか、あるいは何をマイナスしていくべきか。私はこの問題に深い興味があります。それと同時に「もうこれ以上は無理なのではないか」という言い寄れぬ不安が根底にはあることも事実です。

 しかし時代の進化するとともに生み出されてきた「まったく新しいもの」とは常にこうした歴史の上を歩いています。今回お話しました、「なぜ小説は売れないのか」は私の取り組みたいテーマのひとつでした。最後までお読みいただきありがとうございます。 

                        2022 04 04 猫目




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