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人生を変える大きな出会い そしてそれが 6

住んでいた 地区にある高校に 400mのトラックがあった
当時はまだ土のトラックだが 俺としては嬉しく 学校を終えると毎日そこに行って 走ったりしていた。そんなとき 初老の男性が歩いてきて 言葉をかけてくれた。(のちに大きな人物だってことで驚き)その人が話してくれる話を聞いてると 色々大きな、話しばかりで 俺としては 眉唾物で そんな事あるわけないやろうって ちょっといい加減に話を聞いていた。俺の悪いところで 自分のボーダーラインがあって それを超えると 疑う悪い癖があり、しかし 聞いてると その人は陸上のコーチだと言うこと 憧れのアメリカで陸上のコーチと出会い。聞こえはいいのだが 相手が誰かわからず 聞くだけでは理解できない。しかし、この人はなぜか優しく俺に 俺の学校にこいって 誘われて 学校名を聞くと Glendale Community College  住んでる地域の学校で 全くそこに関する 情報は何もなく じゃー明日午後に行く (その時は 半信半疑で 何が起こるのか それすらわからず ) そう約束して 家に帰ると 家人のおばあちゃんが 遅かったな 勉強しろって なんだか 親に言われてるような感じで 叱責され ついで 大学の話をすると 陸上のことなど知るよしもなく 明日行ってくるって言うと、何を聞き間違えたのか 俺がそこの学生になるって思い込んだようで、色々な大変なことが起こった。ここではその部分を省略いたします。
その初老の男性は John Tansley アメリカでは有名なコーチで
混成競技では ナンバーワンのコーチだった。(これはそれから数ヶ月後に知るようになる)
ジョンのいる大学を訪問してみると 普通の土のグラウンドで なんら変哲もない学校で ちょうど学生が 基礎練習中だった。練習を見ていると 日本のそれとは大きく違い どこまで真剣になってるのって感じが見受けられるのだが いざ走ると速い。グラウンドで 学生に 色々質問してみると
普通に 日本記録的な選手がいる。この大学は決して有名校じゃないし、短期大学。えー 何なん これ えー これしか言葉はなくて 当時 日本の400mは決して速いものではなかったが ここの学生は最も簡単に 日本記録レベルで走るって どうなっとんじゃ やっぱりアメリカは陸上大国だって実感した瞬間だった。
そこから俺は、早く大学院に行くために勉強せねばと 自分を追い込むようになり その日から 俺はちょうど2ヶ月(この大学の陸上部の練習時間以外)寝る間も惜しんで 英語を 何でもかんでも丸おぼえした
やった甲斐もあり 目標とする点数までこぎつけた。いくつかの大学院に願書を送り 運よく全てから 合格をいただいた。しかし、今度はお金の問題がある。俺は親からの援助を全く受けていない。そして アメリカでも稼ぎは少なく。ちょっと話は逸れるが 日本でアメリカのマクドナルドで働くつもりで 勉強してきたが 労働許可証がないため どこも働けず そこで俺はまた 色々模索して 古着を日本に送る仕事を自分で始めた 街のスリフトショップ(これは近隣の住民が いらない服や家具などを無償で店に持って行き 店はそれを販売して収益を上げる ある種ウインウインの制度。そこに行って 安く 古着を買って(一応 日本のファッションなどはあらかた 友人に手紙を書いて 聞いており 何が欲しいのかなどを調べ)
大阪にアメリカ村ができて 数年で多くの店が アメリカの古着を欲しがっていた時代です。また 家の近隣のスリフトショップの店員が ここで買うよりもっと安く買うことができる場所が、あるから行けばいいと教えられ
そこに向かうことになる。ボロボロのワーゲンでなんとかたどり着き そこはただのクズばかり置いてるところで 段ボール一箱20ドル何が入ってるかわからないその箱を4箱ほど、買って帰り 家の裏庭で開けると 匂いはするわ、何があるかわからないけど 一箱に大体20枚くらい使える 日本で好まれるような服が入っている。俺はそれらを洗濯機で洗い乾燥させて シミなども綺麗にして 日本に送って収益を稼いでいた。今と違って 全てがのんびりで 入金も日本の口座にしかできなく この部分だけ 親父にお願いした。親父は 俺が何してるか話からけど 口座にお金が入ることを不思議に思い。ある日電話で お前 ドラッグ日本に送ってるんじゃないだろうなって 当時まだ 1ドル 二百二十円の時代 俺の口座には 毎月 平均で 40万円近くが入っていた。(しかし、それをドルに変えて送ってもらって 必要経費を抜くと 手元には 1500−1800ドルくらいしか残らず、毎月ギリギリの生活を行っていた。しかし 大学院に行くための最低限のお金はなんとかできており しかしこの軍資金では 1セメスターが限度 (ちなみに 当時合格をもらった学校は UCLA UTEP Kentucky
Wyoming ) UCLAは 授業料が高額 アパートも無理  Texas El Paso は 英語じゃなくほとんどスペイン語 砂嵐がひどく そしてKentucky 大学は 訛りがきつくて 厳しく 最後の ワイオミングが 俺のベストマッチとなった 授業料も当時やすく 1年はいけるだろうって。
そう考えて ワイオミングに行くことにして そこで運動生理学を学ぶことになる。


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