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12月チェロレッスン①:今日ぐらい、休んだら?

激務が続いている。

この時ばかりは、非日常の時間が過ごせるレッスンの日が楽しみだった。

「こんにちはー!」

と私がレッスン室に入るなり、先生がポカンとした。

「雰囲気が変わった?発表会の時と違う…あ、髪切ったのか。」

さすが、おしゃれにこだわる先生。
私の家族、職場仲間は誰も気づいていない。
ここのところ、人前に立つ仕事(発表とか講師とか議長とか)が多いから、せめて身綺麗にしておこうと、伸ばしっぱなしだった髪をショートボブにしてもらった。

「そういうセンセも、髪切りましたね。」
「うん。ところがさ、いつも僕を担当してくれている店長が県外の実家に帰ってしまって、引退した先代店長が切ってくれたの。もう高齢だから心配したけれど杞憂だったね。」

先代店長は、パリコレで活躍した人だそうだ。

「やっぱり、プロはすごいねぇ。」

と、先生が他人事のように言うので、私は頭の中に?マークがいっぱいになった。

「私から見ると、センセもチェロのプロだと思うのですが。」

先生が頭を掻いて苦笑いする。
「ああ、そうか…そうなるか。誰でも自分でプロだと名乗ればプロなんだけど。自分で名乗ったところで、周りが認めないとね。本当のプロになるのは難しいねぇ。」

「そういうものですか。じゃあ、センセはやっぱりプロですね。」
「うーん…どうだろ。オケで弾いて、室内楽もして、弟子がいて、それで食べている…から、そうなるのかなぁ…。」
なんとも歯切れが悪い。
これだけ活躍しておいて、自分をプロだと思っていない先生。

           ★

「そうだ、コレあげます。」
私はレッスンバッグから紙袋を出して、先生に渡した。
紙袋を開けた先生、
「あ。ドリップコーヒー。」

「ココに来る前に、コーヒー屋さんに寄ったんです。
私はクリスマスブレンドの豆を買いました。センセは豆挽かないから、ワンドリップね。」

「しばらく家でコーヒー飲んでなかったなぁ。色んな種類入ってるの?楽しいね。帰ったら早速飲むよ。ありがとう。」

私が先生宅に居候していた頃、初めて私が豆を挽いてコーヒーを淹れたとき。
「薄いコーヒーは好きじゃないから、うんと濃く淹れてね。」

私は「ああ、オトナはやはり濃くて苦いコーヒーを好むものなのだなぁ」と感心した。
私は当時、牛乳を入れるカフェオレしか飲めなかったので、先生の好みが濃いコーヒーでちょうど良いと思った。

「はい、どうぞ。」

コーヒーの入ったマグカップを受け取った先生「ありがとう」と言うと、キッチンの砂糖壺を出してきた。

私が、まさか、と思いながら見ていると、先生はマグカップにスプーン山盛りの砂糖を一つと言わず、三つも入れた。
「ええー?!」
何食わぬ顔で甘ったるいコーヒーを美味しそうに飲む先生を見て、私はクスクス笑った。

恐らく先生はこのドリップコーヒーも缶コーヒーの如くあま〜くしてしまうのだろう。

...と思ったら、急にその当時に戻りたくなってしまった。

「どうした?」
涙を堪えて立ち尽くしている私を訝しんで、先生が言った。

「...何でもありません。」

きっと私は疲れているんだろう。

           ★

レッスンは、バッハ無伴奏チェロ組曲5番プレリュードの続き。
前回、3ページ目後半から4ページの頭までさらってくるように指示されていた。

どこから弾きたい?と先生に聞かれたので、私は4ページ目の冒頭の音の取り方が合っているか確認したい、と申し出た。

「じゃあ、3ページ目後半から弾き始めていいよ。」
そう言われたので、課題にもらっていた部分から始めた。

今日は、やる気半分であまり力が入らなかったのがかえって良かったのだろうか、自分で思う以上に弾けた。
先生も「うん、いいね。」と言う。

「夜の質問の部分なんだけど。129小節の“ラ♭シ♭ドレ♭シ♭ド”の最初のシ♭(B)、5ポジやめて、4ポジで取ろうか。そのほうが取りやすいんじゃない?」
「つまり、112313ではなく、122313ってこと?」
「そうそう。」

数字は運指番号のこと。
確かに、そのほうが音がズレにくくなった。

先生の指摘は続く。
「133小節目。“ファシ♭ラ♭ソラ♭ファ”だけど。ラ♭ソを2、2で下がるのが取りにくそうだね。最初から書いてある番号は無視していいから、前のシ♭ラ♭から4、4で下がるといいと思うよ。」
「つまり、最初のラ♭でもう3ポジから2ポジに下がっちゃうってことですか。」
「そうそう。」

やってみると、そのほうが確かに音がズレなくなった。
なるほどー。

「今回の注意点は、その2か所かな。
じゃあ、次のレッスン。4ページ目全部、さらってきて。」

今日のレッスン、やけに優しいなぁと思っていたのにコレだ。1ページ丸々やって来い、と…(泣)。

このC-Mollという、ややこしい調を延々とやっているおかげで、大の苦手だった高音ポジション移動がだいぶ鍛えられたと感じる。
オケでやるブラームスのF-Dur嫌いも、ほんの少し和らいだ。

           ★

「来年になったら、KさんにG線とC線を新しいものに替えてもらいます。」

レッスン後、私が言った。
先日、A線とD線の2本の弦だけ、交換してもらった。

「弓の毛替えは?」
「10月にしてもらったから、次は4月か5月に。
弓といえば、私、マスターヨーダ(先生の先生)に貸してもらった弓が忘れられません。」

1年前の話だ。
持つと重いのに、弾くと羽のように軽い、不思議な弓だった。

「ヴァンカだろうか。ギヨームだろうか。」
弓のメーカーを先生は聞いてきた。
「たぶん古いヴァンカ。父親が作ったっていう。」
私のは、その息子の弓。

「ああ、アレね。」と先生。
「僕もちょっと前に借りたよ。メンデルスゾーンの八重奏弾いた時に。2ndの仕事が重労働でね。先生に話したら、コレで弾いてみろってね。確かになかなか出会えないね、ああいうのは。」

「メンデルスゾーンの八重奏?知らないです。」
「うん、あまり有名ではないね。でも、カッコいい曲だよ。聴いてごらん。」

そんな感じでバロック音楽がいいとか、前古典派が苦手だとか(つまり、センセもモーツァルト苦手なのね)、1時間も雑談してしまった。

「ああ、そろそろ仕事に戻ります。」

私が立ち上がると、それまでニコニコと話していた先生が真顔になった。

「今日ぐらい休んだらどうだ。」

先生、私を仕事に戻らせたくなくて、長々と雑談したんだな。

「もう少しで研究論文が出来上がるんです。」
「それが終わったら、ちゃんと休めるんだろうね?」
先生は、キチンと確認するようにそう言った。
これは、レッスン前に私が泣きそうだったの、バレてたな。

「今度の課題多くしたの、ワザとですね。」

先生、私の目をジッと見て言った。
「仕事からも、難しいオケのブラームスからも少し離れて、お前の好きな5番をたくさん弾いたらいい。」

そっか。先生から見ると今の私は全然楽しそうじゃないのか。

「はい…そうします。」

結局、私はまた先生に心配をかけてしまった。

もう少し練習していく、という先生を残して、私はレッスン室を後にした。
ドアを抜ける私に、先生は「今日は日付が変わる前に寝るんだよ。」と、まるで保護者のようなことを言ってくる。
私は、はーい、と軽く返事をした。

その日は先生の言いつけ通り、23時に就寝した。








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