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3月チェロレッスン1回目:記憶がない。

「センセ、コレまだ渡してなかったと思うんで、あげます。」

音大生さんと交代でレッスン室に入り、防音扉を閉めてから、バッグから取り出した写真を先生に渡した。

写真を手にした先生「懐かしいなぁ!」と笑う。
大学の学位記授与式後に先生と並んで撮った写真。

「こんなこともあったね。夜も僕も随分若いな。」
「先日家を片付けてたら出てきました…私、センセとこの写真を撮ったの、全然覚えていないんです。」

私がいつもと違って沈んだ様子なのに気付いて、先生は視線を写真から私に移した。
私は荷物を全部下ろしてから言った。

「今さらだけど、あの時、センセに酷いこと言って勝手に家を飛び出して、すみませんでした。
あんなにお世話になったのに…自分がどれだけ身勝手だったか、今ならよくわかります。」

私が泣き出したので、先生「ええ?!」と驚いて、慌てて机にあった箱ティッシュをくれた。
「まず、座りなさい。」と言われたので、箱ティッシュを抱えて座った。
先生も私の隣に椅子を寄せて座った。

「この卒業式の日も、お前僕におんなじこと言ってたよ。」先生、私の頭をポンポンしながらそう言った。

今度は私が驚いて顔を上げた。先生が続ける。
「式典があった会場からキャンパスへ送った時の車の中で。この写真、よく見ると、泣きはらした顔してる。覚えてない?」

私は首を振る。
「全然覚えてません。」

「この後震災があったからなぁ。
確かお前、震災でかなり辛い思いをしたんだろう?この辺りの記憶を一緒に閉じ込めたんじゃない?『解離性記憶障害』っていうヤツ。」

音楽専門の先生に似つかわしくない医療用語が出てきたので、私はびっくりして泣き止んだ。

「センセも臨床心理士の資格持ってるんですか?」
「まさか。」ニヤリとする先生。

「ウチに住んでいた頃、お前たまに目を開けたまま眠ってるみたいにぼーっとしてることがあったの。お前は無自覚だったみたいだけど。」

確かに。
記憶にあるところだと、中学生くらいから周りの人達に「声をかけても反応がなかった」と言われたことが度々あった。
変な子扱いをされた。
学校では「授業を聞いていない」と怒られたこともあった(でも、定期考査で満点を取って「ちゃんと聞いてたんだな」と学校の先生に呆れられた)。

先生は続けて言った。
「それで、自分で調べてみたり、音楽関係で繋がった医師に相談してみたりしたの。
そうしたら、幼少期に親を亡くしたことに関係しているのではないかって。お前に聞いたら、小学校時代の記憶が全くないって言うし。」

「全然ってわけじゃないですよ。断片的にはあります。母を亡くした頃の記憶は確かにないです。」
先生、うなずく。
「心の自衛反応なんだってね。
ぼーっとしている時は何をしても反応ないんだけど、僕が曲の練習を始めると意識が戻るのが不思議だった。
この間、亡くなったお母さんがよくチェロの曲を聴いていたって話を聞いて、納得したよ。」

私も今納得した。

「震災の記憶は、意識的に閉じ込めています。
あとは先生の言うとおりです。大学の最後の方も大変だったから、記憶障害が出ているかも。」

「夜のそのぼーっとする症状、治療が必要かなって医師に相談もしたんだけど。フラッシュバックして苦しんだり、生活に支障が出たりするなら治療が必要だけど、普通に生活できるのなら大丈夫だろうって。記憶を蘇らせる方法もあるけれど、本人が困っていないんなら無理に思い出させることもないって。」

「センセ…そこまで心配してくれてたんだ。なのに私は馬鹿だった。ごめんなさい…。」
私はまた泣き出した。
「わかったから、もう泣くな、」先生は私の頭をくしゃくしゃ撫でる。

「だってセンセ、『お前が家を出ていくの、止めればよかった』なんて言うんだもん。」
私はティッシュで鼻をかむ。
先生が先週そう言ったとき、私は聞こえていないフリをしていたのだった。

「ああ、やっぱり聞いてたの。」と先生。

「それは夜が来週出るモツレク公演が終わってから、レッスンじゃないときに話そうか。」

★★★★

夏の演奏会で行うブラームス弦楽六重奏1番は、モーツアルトレクイエムが終わるまで保留となっている。
4楽章が仕上がっておらず、先生に教わるつもりでいたが、それはモツレクが終わってからにしようということになった。

なので、本日はバッハ無伴奏5番プレリュードのレッスン。

なかなか練習時間が確保できず、練習できるときはどうしてもモツレク中心となる。
バッハは練習不足である。

「んー、フレーズひとつひとつを取り上げるとちゃんとできるのに、全部となるとまとまりがないんだなぁ。」
先生は、私の序奏をそう評した。

やっぱり、できてないか。

「もっと歌って。あと、難しいところは慌てない。」

5番は先生にとって大事な曲だから、私が「できた」と思った以上のものを求めてくる。
終わりが見えない…。

「来週モツレク終わったら、コッチも集中できるだろう?次回は次のページもやるからね。」
とのこと。

弦六4楽章と同時進行か…。不安は尽きない。
でも、やるしかない。

★★★★

「来週のモツレク、S先生の指揮に乗れるなんてオケマンとして最高の経験だよ。楽しんできなさい。」
と先生。
「追悼公演なんだし、お前が胸の奥に仕舞ったっていう震災の辛い記憶も浄化してきたらいい。」

はい。そうします。

「センセも12日の公演、頑張ってください。」
「うん。頑張ってくるよ。」

本日のレッスン終了。
さて、明日はいよいよゲネプロだ。
(3/4)



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