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24.3月 チェロ師匠の家

日差しの暖かい日の午後。チェロ先生宅へ行った。

私がお邪魔するなり先生が話し出したのは、ベーレンライター出版のバッハチェロソナタの楽譜のことだった。
前々回のレッスンの際、楽譜の譜めくりの部分がおかしいと話していた。
先生は、ドイツ本社へ直接メールで問い合わせたらしい。

「一週間後に返事があったんだけど。この楽譜は研究資料として出版しているのであって演奏用ではないから、譜めくり位置など考えていないって。そんなことって、あるかな。」
師匠、ご不満の様子。

「じゃあ、ベーレンライターは諦めて、ほかの出版社にするしかないですね。」

先生、ドイツ語ペラペラでいいなぁ。
私は必要に迫られて大学でドイツ語の単位を取ったけれど、試験は苦労した。もちろん、試験に当たって先生にだいぶ教えてもらった。もったいないことに、今はさっぱり覚えていない。

「センセ。私はオケのロビーコンサートで、チェロ四重奏ノクターンと無言歌を弾くことになりました。パートは3rdです。
パート譜しかもらってなくて、1stがどう弾いているか知りたいんです。スコア持ってませんか?」

言いながら、私は楽譜をバッグから取り出した。
楽譜を見た先生が言う。

「このノクターンはゴルターマンのだね。
ゴルターマンはほとんどやってるから、あると思うよ。
コッチの無言歌は初めて聴くなぁ。無言歌って沢山あるんだよ…って、お前、眠いのか?」

私、何度もあくびをしていた。

「強烈に眠いです…。」と私。

「当直だったの?」
「いいえ…近頃慢性的に眠いんですよ。春だからでしょうか。今日は一日休みをもらったんですけどね、朝早くから隣市へ出掛けて、息子の定期と駐輪場手続きしてきたんですよ…。」

4月から高校生になる息子。
通学には遠い学校なので入寮を申し込んだが、県外からの入寮希望が多かったため、隣市の息子は外れてしまった。2年生になれば寮が大きくなるため、優先的に入寮できるという。
そのため、1年間は2時間かけて通学しなければならなくなった。

「お前のは春だからじゃなくて、疲れ過ぎなんだよ。」
「すいません、ちょっと寝ます…。」
私、ソファに横になった。
「おいおい、風邪引くよ。」
「平気です。」
着ていたパーカーを脱いで被った。

数秒で寝入ったと思う。
先生のこの家は、昔ココに住んでいた私にとって実家に帰ってくるようなものだ。安心するから、余計に眠いのだろう。

           ★

テレビから聞こえてくる歓声で目が覚めた。

起き上がると、先生が毛布をかけてくれていた。
先生は隣のソファでテレビを観ていた。
「私はどれくらい寝てましたか?」
「…1時間半かな。」
「だいぶスッキリしました…。」
私は毛布にくるまったまま、しばらくぼーっとした。
「センセ、野球なんか観るんでしたっけ?」
テレビには、プロ野球のライブ中継が映っていた。先ほどのは、観客の歓声だった。
「最近は地元球団を応援してるよ。」
と、先生。ふーん。

私はキッチンへ行って、勝手にコーヒーを淹れた。
マグカップ二つ持ってリビングへ戻り、カップの一つ(砂糖三つ入り!)を先生の前のテーブルへ置いた。
そこに、ゴルターマンnocturneの全パート譜が置かれていた。
私が寝ている間に探してくれたらしい。
「ありがとうございます。」と言って、私は楽譜をめくった。

「スコアはなくてね。パート譜が揃ってたから、これでいいかな。」
「1stが見たかったから十分です。」

1stと3rdの楽譜を並べて、スマホで曲を流して譜読みした。
ああ、なるほど。
わからなかった1stの動きがよくわかった。
楽譜を借りていくことにした。

           ★

その後は、私が持参した先生の好物、千疋屋のフルーツゼリーを食べながら近況をしゃべった。

「お前さ、もうちょっと仕事休めないの?」
「来週末休みもらいましたよ。長男の入学式だから…あー、でも、午後からのカンファレンスにどうしても出なくちゃいけなくて、半休になってしまいました。」
「ソレ、休みじゃないだろう。」
「ですねー。でも、みんなそんなものです。」
「よくないなー。」
「ですよね。」

私、チラリと時計を見た。
「そろそろ帰ります。」
先生も時計を見て、「もうこんな時間か。」と言った。

「ボクばっかりしゃべっていたけれど。夜もなんか話したいことがあったんじゃないの?」

うーん、そうだったろうか。

「話したいことは特にないんですけど。センセが元気か、様子見に来ました。」

先生は少し前、とても元気がなかった。

「元気になったようで良かったです。」

先生、苦笑いした。
「おかげさまで。ボクが元気なかったら、夜が路頭に迷うだろう?」

迷う?

「チェロ的に。」

ああ、そういうことか。

「そうです、困ります。私が無伴奏全曲マスターするまで元気でいてもらわないと。」
先生が笑う。
「それはだいぶキツイなぁ。今やってる5番は、いつ終わるかな?」

ええ、時間かかってますよね…。

「…がんばります。」
「まずは、ちゃんと休みなさいよ。」
「…善処します。じゃあ、また来週です。」
「はい、来週ね。」

           ★

帰りの車の中で“ノクターン”を流していたら、オケのSさんに先生との懇親会の設定をお願いされていたことを思い出した。

先生に都合を聞くのを、すっかり忘れていた。

…急ぐ必要もないか。






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