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2月チェロレッスン2回目:何を今さら...。

「こんばんは〜。外までいい匂いしてました。お腹空いた!」

今回のレッスンは、先生の自宅開催。私と先生の予定が合わなかったからだ。
お互い仕事後ということもあり、先生に夕飯も食べさせてほしいとお願いしていた。

私は楽器と荷物を玄関に置くと、キッチンへ入った。
先生はシチューの入った鍋の火を落としたところだった。
「オムライスは今から作るでしょう?卵出しますね。」
私が冷蔵庫を開けると、先生が「ソレは後。」と言う。

「夕飯はレッスンが終わってから。」
私は不満の声を上げる。
「えー。お腹空いてるから、今食べたい。」
「だってお前、食べたらすぐに眠くなるじゃない。始めるよ。準備しなさい。」
「えー…。」

先生がレッスン室へ向かったので、私も仕方なくついていく。

★★★★

先ほど工房から受け取ったばかりのチェロをケースから出す。
工房の木とニスの香りがした。
剥がれた裏板は膠でキレイにくっついていた。

テールピースを交換したことに、先生はいち早く気付いた。
柘植の明るい黄色からローズウッドの暗い焦茶色になった。
「やっと替えたか。こっちの方がニスの色に合っててカッコいいな。」
と先生。
「工房のKさんは柘植の方が気に入ってたみたいで、交換には後ろ向きだったんですよ。Tさんが口添えしてくれました。」 
「それは良かった。てっきり夜も明るい色の柘植の方が気に入ってるのかと思ったよ。」
楽器のオシャレにこだわる先生。

丁寧にチューニングをしてから、いつものようにウオーミングアップのボウイングとスケール練習。
終わってからは、先生の指示で無伴奏5番プレリュードを弾き始めた。

序奏はすっかり暗譜した。
1ヶ月前注意されたバロックの“引っ掛ける弾き方”に注意する。

弾き終えると、先生が「うーん。」と唸る。
「お前さ、ここのところ練習してなかったの?」

え?こんな短い演奏でそこまで気付く?

「楽器修理中の間、Kさんから別の楽器借りてなかったの?」

「ええと…。」と私が口篭ったのを先生は見逃さない。

「…質問を変えよう。なぜ、Kさんはお前に楽器を貸さなかったんだ・・・・・・・・?」

先生、不信感を露わに私に言った。
…こうなったらもう誤魔化せない。

「練習し過ぎて、左手小指の筋を痛めました。
それを知ったお兄さんが、いい機会だから療養しなさいって。」

先生「そんなことだろうと思ったよ。」と、ため息をついた。
お兄さんに口止めした意味、なかったな…。

「それで?手は治ったの?」
「はい。治りました。弾かないことが一番の薬でした。」
「そうか。Kさんに感謝だな。」

先生、椅子の背にもたれて話し出す。
「根を詰めて練習したのはモツレク?」
「はい。9曲目の高速パッセージがなかなか弾けなくて…。」

「本番近いから気持ちは分かるけど。
オケの曲は1曲が長いだろう。最初から終わりまでさらおうとすると、優に1時間かかる。引っかかるところを繰り返し練習すると、あっという間に2時間だ。」

そのとおりですね…。

「お前の場合、出来るようになるまでしつこく繰り返して時間を気にしない。そうでしょ。」

…はい。

「そんな練習の仕方じゃあ、怪我をする。
続けて練習するのは、40分までにしなさい。
練習中時計なんか見ないだろうから、スマホでタイマーをセットすること。
タイマーが鳴ったら、いくら興に乗ってても休憩を入れること。」

「...わかりました。」
「わかればよろしい。」
「...意外でした。」
「何が?」
「センセが怒らないから。」
「怒られたいんだ?」
先生、ニヤリとする。
「いやいやいやいや。怒られたくないです。」
慌てる私。
「僕もあるから。」
「はい?」
「僕もあるんだ。手の怪我。練習のし過ぎで。」
と言いながら、先生頭を掻く。
私は驚く。
「それもまた、意外です。」

君たちのストイックさが同じ、と工房のお兄さんが言っていた。

「それで、40分で休憩を入れるようにしてるの。そうしてからは大事にはなっていない。
夜も真似してみなさい。それでも傷めるようなら、もう少し早く休憩を入れるようにしなさい。」
腑に落ちた。
「はい。やってみます。」

★★★★

無伴奏5番は練習不足なので、振り出しに戻った感が否めない。
今はモツレクと弦六の演奏の方が大事なので、5番は急がなくても良い。
おさらいのみ行った。

重音を弾くのにキレイに音を出そうとして弓を必要以上に弦に押し付けてしまっていたことを注意される。
左手が正しく弦をおさえていれば、弓は軽いタッチでキレイな音になることがわかった。

★★★★

練習後はお待ちかねの夕飯♪
人に作ってもらうご飯は、どうして美味しいのだろう?
おかわりをした。

食事中、私は先日のS先生の指揮練のことや、弦六の初合わせがひどかったことを話した。

先生からは、闘病中のお父さんの話が出た。
私に家族のことを話すなんて、かなり珍しい。
私に親がいなかったから、という気遣いがあったに違いない。

「肺を患っているのに、先日胃と大腸のカメラを勧められて受けたんだよ。なぜなんだろう?」
「ああ、それは消化器官の出血を疑われたんですよ。もしかして貧血が見つかったんじゃないですか。ヘモグロビン値下がってたでしょう?」

先生、驚いたようで、食事の手を止めた。
「そのとおりだよ…どうしてわかった?」

「コッチの世界では常識だからです。
患者さんに説明が足りないのは総合病院に有りがちな悪いところですね。あそこは分業制だから、主治医がキチンと説明しているだろうと思い込んでる。主治医でなくとも丁寧な説明は必要なのに。そうでないと、患者さんが不安になる。」

「血液検査の結果が悪かった。でも消化器に異常はなかったんだよ。夜だったら次に何の病気を疑う?」
「血液検査、ほかに悪かった値は何ですか?」
先生から検査の結果を聞く。
こんなことが疑われるから、私だったらこういう検査を勧めるなぁ、ということを先生に話した。

「…夜の説明でよくわかったよ。父親に話そう。きっと納得すると思う。」と先生。
「それはよかったです。でも、私は直接検査結果を見ていないし、お父さんを診察したわけでもないので、ちゃんと主治医に相談してくださいね。」

先生「わかった」と言いつつ、私をジッと見てくる。
私は居心地が悪くなった。
「…センセ、何ですか。」
「いや、お前本当に医者になったんだなぁと思って。」
「…そうですよ。じゃあセンセは普段私のこと何だと思ってるんですか。まだ18歳の小娘ですか?」

先生、ちょっと考えて言った。
「アマチュアチェリスト?」
「…ソレも当たってますけど。」
私は笑った。
「路頭に迷ってたあの日、センセが拾ってくれなければ、今ここに私はいなかったですね。」

私はごちそうさまを言って、食器を片付けるために立ち上がった。

「お前がここを出ていくって言ったあの時に、やっぱり止めればよかったな...。」

私が洗い物をしている横で先生がぼそっと呟いたのが聞こえた。
私は水音で聞こえなかったフリをした。

「明日も仕事なんで、今日はこれで帰ります。
ありがとうございました。」
手を拭きながら私は言った。

先生、ハッとしたように振り返る。
「うん、また来週だね。」
「はい。来週ですね。おやすみなさい。」
「おやすみ。」

荷物を抱えて、先生宅を出た。

もう20年近く前のことだ。
...なんで今さらソレを言うかな。いくらなんでも遅すぎる。

私は勢いよく車のドアを閉めて、暗い夜道に車を走らせた。

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