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暇と退屈の倫理学を読んで

◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』から学んだことを簡単に書き記します。


1.暇と退屈は違う

 まず、日頃私たちは「暇」と「退屈」を意図せず区別なく使用することが多い。「暇やな~」「退屈だなぁ~」と同じニュアンスで語らえることがあるが、ちょっと違う。著者は暇と退屈を四元に表し、こう示している。

  • 暇だし、退屈である。(1)

  • 暇だけど、退屈じゃない。(2)

  • 暇じゃないけど、退屈である。(3)

  • 暇じゃないし、退屈でもない。(4)

 分かりやすい順に言うと、(4)は何かに打ち込んでいる時間である。仕事にせよ家事にせよ、遊びにせよ良かろうと悪かろうと忙しい時間である。 
 次に、(1)。やることがなく途方に暮れる状態である。田舎の駅で電車に乗り遅れ、次の電車まで1時間ある。駅の周りにも特に真新しいものはない状態。次の電車が来るまでの1時間をどうやり過ごそうかという時間である。ハイデッガーはこの状態を退屈の第一形式と呼んだ。
 そして、ちょっとイメージしてもらえれば分かるだろうと思うのが(2)。暇だけど、退屈じゃないのは、自由時間や隙間時間ができてやるべきことはないんだけど、その分自分の好きなことができる時間だ。30分ある。よし、ゲームしよう、読みかけの本を読んでしまうなどといった時間だ。さきほどの(1)の状態と比べて、困り感がない。暇を謳歌する状態である。
 問題は最後の(3)。例えば、(失礼かもしれないけど)友人の結婚式や何かのセミナーに参加しているとき、美味しい料理を食べたり誰かしらと会話をしているのだが、帰路につくとき「退屈だったな」と事後的に感じるのがこの時間である。ハイデッガーはこれを退屈の第二形式と呼んだ。

 このように、暇は少しプラスの意味合いで、退屈はマイナスの意味合いで使い分けされることを何となく私たちも理解できるであろう。そして、人々はまず(1)を避ける。そして仕事や勉学に励んでいる人やスケジュールを詰め込みたいひとは(4)を目指す。しかしそこに潜むのが(3)である。ハイデッガーは第一形式と第二形式を示したうえで第三形式もあると主張する。退屈の第三形式とは何か??それは「何となく退屈だ」と感じることだと言う。そして人々はこの「退屈」を嫌い、回避しようとするのである。

2.決断することはよいことか

 人生は選択の連続である。しかし、決めなくてもいいことまでもしかしたら決めてしまうのが私たちの病理なのかもしれない。キルケゴールは「決断の瞬間とは一つの狂気である。」と述べている。私たちは先述した退屈に耐えきれず、あるいは予見できる将来の退屈を回避するために、「何かしなきゃ」「先の予定を埋めなきゃ」と決断する。決断とは、しばしば英雄的な含みをもたらすが、そうではない。決断するということは、決断したことをやらなくてはならないという義務感が発生する。言わば「決断の奴隷」になることであると述べられている。

 日常生活を見返してみると、実は(3)の状態「暇じゃないけど、退屈である」場面が多いのではないかと指摘されている。先の例の友人の結婚式やセミナー、職場の飲み会、友人とのショッピング…事後的に退屈だと感じてしまう(かもしれない)ややもすれば不安定なしかし、均整の取れた環境の中に私たちは身をゆだねている。何となく心地がいいからだ。しかし、油断すると退屈の崖に落ちかねない。そこで人は仕事に打ち込む。仕事が好きだからというより、退屈から逃げたいからだ。ここに隷属性が見て取れる。そして、決断の必要ない(3)の状態、つまり退屈の第二形式は狂気とは逆の正気なのだと捉えることができてしまうのだ。


◆ちょっと時間が空くとすぐスマホを手に取るのが現代の人々の病理だと思っています。SNS、ソシャゲ、アマゾンなどのショッピング…電車に乗っているとほとんどの人がその行為に走っている。これは決断じゃなく、もはや無意識に根付いてしまっていると思います。これらに関してはまた別の機会に取り扱っていきたいと考えています。
 まずは、暇とは何か、退屈とは何かをじっくりと捉え直し、何でも決断して主体性をもとうとする必要はないのではないかなということ。暇と退屈のあわいを楽しむことができるのならその方法を探っていきたいと思います。

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