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吃音について学ぶ

◇「放送内容をめぐってNPO法人「日本吃音協会」がTBSへ「吃音者に対する差別と偏見を助長するもの」と抗議文を送る騒動」

 少し前に、テレビ番組「水曜日のダウンタウン」では、この騒動を受けてさらに番組を展開するという放送回がありました。
 内容そのものというより、吃音についてそういえばきちんと考えてきたことがなかったなと気付きました。

 水ダウでのインたけさんの吃音騒動を見て、思い出したのが同じくテレビ番組「月曜から夜更かし」のフェフ姉さん。当時面白くてよく見ていたのですが、フェフ姉さんのところだけはどうも嫌悪感がありました。

 それは滑舌の悪さを笑いにしていたからです。

 滑舌やどもり、子どもたちの中にも、こうした特性がある子はいます。今回は、吃音に焦点を当てて学んだことを書いていきます。


1.言葉の問題ではなく身体の問題

 私たちは普段、「しゃべる」ことに関してあまり意識を向けません。向けたとしても「何をしゃべるか」「伝わりやすい話し方」「おもしろおかしく話す技法」などのように内容や話型といった言語的側面についてがほとんどだと思います。

 しかし、話す(もちろん聞くこと・書くこともそうです)こととは身体的な運動です。声帯を震わせ、舌を使い、口を様々な形に変化させ、私たちは言葉を発しています。

 何を話すか、面白い話し方は脳ですが、言葉を発する段階においては運動です。

吃音とは・・・話す際に、言葉が滑らかに出てこないこと

 つまり身体の問題なのです。自分の身体は自分のものか、といった哲学的な話もあります。
 例えば、心臓や胃腸といった内臓は自分の意思で止めたり、活性化させたりできません。自分の意思でコントロールできない領域です。
 一方、歩いたり、食べたりといった行動は随意運動と呼ばれ、内臓などと違ってコントロールできるかに思えます。速く歩いたり、ゆっくり食べたりと調節しながら私たちは生活しています。しかし、『どもる体』の著者である伊藤亜紗さんはコントロールできるかに思える運動でさえ、意識的ではないと指摘しています。

関節を曲げる角度や口の開き具合、あるいは体重のかけ方について、私たちは体の細部にわたって逐一命令を出しているわけではありません。その多くは、体の物理的な構造と習慣の産物による自動化した動きであって、意識的にコントロールされたものではないのです。そうした「体が勝手にやってくれていること」にかなりの部分を依存して、私たちは生活しています。

シリーズケアをひらく『どもる体』伊藤亜紗(医学書院)

 なるほど、話すことにおいても言葉を発する点においては身体に依存しているからこそ無意識的で気にならないのでしょう。

 吃音の人にとってはここが決定的に違う。意識せざるを得ない。

2.症状と対峙する

 吃音の症状にはいくつかあります。水ダウに登場したインたけさんは連発が顕著でした。諸症状の出やすさは人によって、あるいは環境によっても違うのだそうです。

中学校・高等学校の先生方に向けた 吃音を正しく理解するためのリーフレット(都難言協)

https://www.tonangen.com/_files/ugd/888fd6_e3046d346252485e82a8bc0b53be3ff6.pdf

https://www.tonangen.com/_files/ugd/888fd6_8eba7636ee084dbfa6a187b441a14c16.pdf

 これは、東京都公立学校難聴・言語障害教育研究協議会が資料として配布しているリーフレットです。教員向けですが、保護者や支援者にも有用だと思います。

 伊藤亜紗さんは、これらの症状を身体論として詳しく分析しています。
 特に、連発してしまうのは一つの表情であるとし、体がもっていかれるような感覚「タガがはずれた体」と述べています。

 また、興味深いのが連発を避けようとすると難発になる。難発は連発の対処法としての症状であるということです。かなりの緊張状態であることが分かります。

 こうした吃音を回避するために、当事者の方々は話すこと自体を控えたり、どもりそうな言葉は違うことばに言い換えたりと多様な対処、自信の身体との対峙を常々行っていることが分かります。そこには、本人の慣れもあれば、疲れもあるはずです。

 支援者としては、理解を深めるだけでなく、どう関わっていくのがよいか考えていく必要がありそうです。

 音読ひとつとっても、音読なら気にせず読める人もいれば、やはり連発したり難発に陥ってしまったりする人もいるようです。

 難しいのは、吃音であることに気付かれない(うまく対処できてしまうほどそうなりますよね)人に対してどうアセスメントするか。

 吃音は、その症状から日本では戦前から強く注目され、治療法が模索されてきたそうです。しかし、原因も絶対的な解決策もまだ見出されていません。

規則どおりにいかないかもしれない余地を残しておくこと。それは自分の生き物らしさを解放しておくことにほかなりません。

シリーズケアをひらく『どもる体』伊藤亜紗(医学書院)

 ゼロにすることは難しくとも、吃音当事者はこうして自己の身体とかなりの時間を割いて向き合っていることが分かりました。吃音の方に限りません。病気をした人、怪我をした人、高齢になった人、先天性のものがある人、事情は人それぞれ、きっと自分なりの身体との向き合い方があって今があるのだと思います。身体に対峙している自分に目を向けてみよう、そんな気持ちになりました。

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