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対話に備えるということ

◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。学校教育では、「主体的、対話的で深い学び」ということが打ち出されて10年近く経ちました。アクティブラーニングなんて言葉も流行りました。また、今の時代にはコミュニケーション能力が求められるというようなことも随分と言われたものです。「対話しろ」、「コミュニケーションを取れ」ではなく、対話するとはどういうことか、対話的とは何か、について考えてみたいと思います。

 以前の記事でも”晴天の友”ばかりになる危険性について触れましたが、ただ「うん、うん」と言って対話してるつもりになってはいないか。対話することよりも対話に備えることを子どもたちに施すことが大事なのではないかと考えます。参考図書は平田オリザさんの『わかりあえないことから』です。


1.ダブルバインドなコミュニケーション能力

 コミュニケーション能力、対話力と聞くとどんな力を思い浮かべるだろうか?
・知らない人に対して積極的に話しかけられる人
・輪の中心にいて、面白いことを言ったり盛り上げたりできる人
・どんな話題にも精通し、詳しい話ができる人
私だったらこのあたりをイメージするが、企業や世の中では加えて、自分の意見をしっかり主張できる人、外国語を扱える人なども含まれるのかもしれない。随分高い要求だと思う。そして、日本においては特有の「空気を読む」、「忖度する」といった”自分の思いを押し殺す”こともまた、コミュニケーション能力として暗黙のうちに求められているのではないだろうか。

(中略)「我が社は、社員の自主性を重んじる」と常日頃言われ、あるいは、何かの案件について相談に行くと「そんなことも自分で判断できんのか!いちいち相談に来るな」と言われながら、いったん事故が起こると、「重要な案件は、なんでもきちんと上司に報告しろ。なんで相談しなかったんだ」と怒られる。このような偏ったコミュニケーションが続く状態を、心理学用語でダブルバインドと呼ぶ。

平田オリザ『わかりあえないことから』

 要するに矛盾である。そして、重要なのはこの矛盾を強いている側が気付いていないということだと指摘している。これは何も、職場に限らず学校の教室(職員室も)、家庭でも起こってることだろう。言われていること、求められていることの違いに悩み、葛藤すること自体は悪いことではない。「人間は葛藤によって成長する」とは内田樹先生の言葉。しかし、それは立場の違う者が、違う要求する場合だ。上記のように、一つの立場、一つの日本のという社会が無意識のうちに矛盾した要求をしていることには対処のしようがないだろう。対話はなくなり、ただ付き従うのみである。


2.対話的な学習の罠

 学校現場での話をする。アクティブラーニングが求められた直後、我々教員は、それはどのような学習状態を指すのか研究したり話し合いをした。新たな試みが必要なのか、既に取り組んできた活動を再定義すればよいだけの話なのか、揺れに揺れた。そこで陥りがちとなったのが、ペア学習やグループ学習を取り入れさえすればよいという認識だ。「隣と話し合ってごらん」「班にして、話し合いましょう」という教師の指示があれば、その授業は対話的な学習となっているのではないか。

 たしかに、子どもたちは対話をするだろう。だが、大事なことが欠落している。①「何のために対話するのか」②「対話を通して何を学んだのか」そして何より、子ども達が③「対話を求めていたか」だ。私もペア学習やグループ学習は当然行っている。しかし、行う前に必ずこの3点は意識するようにしている。必要がなければしない。理解を相互に補ったり、多様な考えに触れる必要性を感じたりすれば取り入れる。


◆お読みいただきありがとうございます。本質的な対話とはどのようなことかについて、あまり触れられなかったので別の機会にまた取り上げてみたいと思います。

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