愛することの楽しさ
とても美味しいクッキーが3個あるとして、二人でどう分けるべきかを考えてみよう。
このクッキーは私が買って、家に帰ると妻が待っている。
どう分けたら一番幸せなのだろう。
まず、たくさん食べるほど幸せだとすると、私が3個全部食べて、妻はクッキーの存在すら知らないようにする方法がある。
次に、公平なほど幸せだとしたら、一個半ずつ綺麗に分けて食べるのが一番幸せだろう。
でも、恋愛をはじめ、愛憎の関係の家族と仲直りをした私は気付いたのだ。
これって、数学の方程式みたいに、左から右に値を移すと、符号が反転し、移されることとは違う。
私は昔から、自分の分を優先にしてきた。どうしたら私がもっともらえるのだろう。そう考えていた。
全てにマイナスプラスの符号をつけて、最大になるようにした。
しかし、そう暮らしてみたら、すごくしんどくてストレスだ。
自分がもっともらった時は、嬉しいけど、その時だけ。
そこで私は愛をする方の幸せに気付いた。
私が一個食べて、二つ妻が食べた時、妻が美味しそうに、幸せそうに食べる時、それをみて、あ、これって幸せだなと思えるようになった。
料理なんて大嫌いだった。どうせ、材料全部口にぶち込めば同じものだと思った時代があったのに、妻のために頑張って練習もして、美味しいものを作り出せた時、妻の幸せそうな顔を見るのが楽しかった。
キリスト教では、信仰、希望、愛の中で、愛が第一で、愛さえあれば、全てが許されるという。
家族との仲直り前、ゆかちゃんと出会う前は、キリスト教の教えって、「いいことして、悪いことしなければ、地獄に落ちない」だと思って、潔癖に近いいい子コンプレックスを持っていた。
しかし、やっと気付いたのだ。愛されるだけじゃなくて、自ら愛をした時の幸せ、楽しさ、だから、どんな欠点がある人でも、裁くのは人にはできないのだから、愛で動くべきだと思った。
だから最近、与えること、愛することの楽しさを知らない、いわゆる利己的な人が可哀想に感じる。
だって、こんな幸せ、知らないはずだから。自分がこっそりクッキー全部食べて、虚しい喜びで毎日を暮らす人がとても可哀想に思われる。
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