中戸山 西光院 常敬寺

【親鸞子孫の寺】親鸞聖人の孫唯善上人が下総国にて弘安7年に創建。天正期戦禍により堂宇焼…

中戸山 西光院 常敬寺

【親鸞子孫の寺】親鸞聖人の孫唯善上人が下総国にて弘安7年に創建。天正期戦禍により堂宇焼失、寺地が奪われ信濃~越後へ退避。延宝7年お西→お東に転派 【お寺ブログ】https://saikoinjyokyoji.livedoor.blog/

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親鸞直系のお寺・中戸山 西光院 常敬寺です

新潟県上越市高田寺町にあります真宗大谷派、中戸山 西光院 常敬寺です。 当山は浄土真宗を開かれた親鸞聖人の孫、唯善上人が創建したお寺で、後宇多天皇の勅願所であり、その歴史を示す朱塗りの山門にちなんで「赤門さん」と地域の皆さまに親しまれています。 来年(2024)で当山が創建されてから740年目を迎えることもあり、noteでもお寺のことについて発信していこうと思います。 (細かい学術的な真宗史・寺院研究はブログにてまとめてあります) 〈略縁起〉 当山は親鸞聖人の孫である唯善上

    • 常敬寺寺報告「赤門だより」2024年春号

      副住職の唯真です。 常敬寺寺報「赤門だより」の2024年春号を発行いたしました。 (「赤門だより」の名前は、父である現住職が昔発行していた 寺報の名前を踏襲し使わせて頂いております) なお、春号と付いてはいますが、時間が出来た時に制作しているため発刊時季は不定期です。 クリック/タップで拡大されます。 合掌 #仏教 #お寺 #寺報 #浄土真宗 #真宗 #寺院 #赤門だより #常敬寺

      • 当山寺史の電子書籍版を公開いたしました

        親鸞聖人のお孫さま、唯善上人が創建した当山の 歴史をまとめた寺史の電子書籍版を公開いたしました。 『中戸山 西光院 常敬寺の歴史』(178ページ)と題し、 以前著した「常敬寺のあゆみ」・「常敬寺奇譚」を底本として このたび電子書籍として再編集いたしました。 PNG、PDFにまとめてあります。 PDFをプリントアウトしてファイリングして頂くことで 紙の本としてもお読み頂けます。 通販サイト「BOOTH」(ブース)にてDLすることが できます。(1300円/カード払い・コン

        • お寺の被災状況について

          お寺の被災関連のことをブログにてまとめてあります。 (随時更新) 「常敬寺被災関連記事」

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        親鸞直系のお寺・中戸山 西光院 常敬寺です

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【13】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●おわりに  戦乱を始めとして、様ざまな時代の困難を乗り越えた中戸山 西光院 常敬寺は、宗祖親鸞聖人の血縁のお寺、子孫のお寺として現在まで大切に護持され、「赤門さん」の名前で親しまれています。  唯善上人の遺徳を偲び、お念仏の教えの燈明を灯し続けています。 #常敬寺のあゆみ #新潟県 #上越市 #お寺 #寺院 #浄土真宗 #真宗 #親鸞聖人 #唯善上人 #親鸞 #唯善 #常敬寺 #寺史 #弥陀本願寺

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【13】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【12】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●常敬寺中興の祖 了照  大波乱の人生を送った第十二世了照は、常敬寺中興の祖として激動の時代を生き切り、慶長十年(1605)九月二十九日(旧暦)、頸城郡の「春山」(春日山か)※1にて、数えで五十三年の生涯を終え、お浄土に還られました。※2下総国・信濃国・越後国の三国を駆けたのです。  了照の弟で顕照の次男※3という善西は、寛永元年(1624)に善光寺浜(現:上越市五智二丁目)※4に「中戸山 真行寺」を創建、

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【12】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【11】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●お西からお東へ転派する  延宝七年(1679)の正月六日(旧暦)、第十五世照惠の時代にお西(本願寺派)からお東(大谷派)へと転派し、現在に至ります。 ※  高田城下におけるお西の触頭寺院を務めていた常敬寺は、お東になってからも、お西時代の寺格「院家」(いんげ)を許可される等の処遇を受け、頸南、東頸等、頸城郡を中心に教線を広げ、本誓寺や浄興寺と共に「高田三ヶ寺」と称されました。 ※……『院家一宗得度之栞』

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【11】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【10】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●信濃国から越後国へ  慶長の初め頃、常敬寺は堀氏の招請を受け信濃国から越後国に入りました。慶長七年(1602)には下條村(げじょうむら、旧柿崎町)にあり、次いで春日山城下、福嶋城下(福嶋城築城は慶長十二年、1607)を経て、高田須賀町と各地を転々としながら、高田地震の翌年、寛文六年(1666)に現在地の新潟県上越市高田寺町(裏寺二丁目)に移りました。 #常敬寺のあゆみ #新潟県 #上越市 #お寺 #寺院

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【10】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【9】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●下総国時代の常敬寺跡地に関して  関宿の常敬寺跡地には「福泉寺」(史料により「福専寺」表記もあり)という報恩寺末寺が建ち、元禄十三年(1700)にお東からお西に転派すると、元禄十四年(1701)、福泉寺は、当山にあやかり西本願寺寂如上人から「常敬寺」の寺号を受けました。当山とは関係がありません。 ◎……このように各地の「常敬寺」というお寺には当山にあやかったものがあり、他に西蒲原郡味方村(現在の新潟市南

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【9】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【8】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●下総国から信濃国へ   唯善上人(当山開基)と覚惠上人(本願寺覚如上人の父)が異父兄弟という縁もあり、常敬寺・本願寺両寺の結びつきは深く、本願寺顕如上人(1543~1592)は了照を上山させ、自ら指導しました。  そして顕如上人の後援を受け、天正四年(1576)了照は常敬寺を兵乱を避けて信濃国の山田郷平塩(ひらしお、現在の長野県高山村)に再建(さいこん)し、中戸家の当主、常敬寺第十二世住職となりました。

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【8】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【7】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●戦禍によって堂宇が焼失する  しかし天正二年(1574)の北條氏と梁田氏の戦乱に巻き込まれて、常敬寺は堂宇を焼失します。この時に西光院の勅額や将軍家代々の御朱印状等、貴重な宝物(ほうもつ)が灰燼に帰し、戦中・戦後の混乱で寺地・寺領が報恩寺の手に渡ってしまいました。 #常敬寺のあゆみ #新潟県 #上越市 #お寺 #寺院 #浄土真宗 #真宗 #親鸞聖人 #唯善上人 #親鸞 #唯善 #常敬寺 #寺史 #弥陀本

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【7】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【6】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●了照 信濃国にて閑居する  父を戦禍で失い、さらに戦国大名同士の争いが下総国で頻発する等、関東一円が戦場となったことで故郷に帰れなくなってしまった了照に、武田信玄は知行を与えました。  そして了照は井上対馬守※の猶子となって保護され、信濃国静間(現在の長野県飯山市)に閑居しました。  了照の帰りを待つ間の常敬寺の管理及び末寺とご門徒は「報恩寺」に預け任せました。 ※……親鸞聖人面授の門弟、善性や教念、西

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【6】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【5】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●父 顕照の死  息子了照を信濃国内の常敬寺末寺に預け交渉に臨んだ顕照は、その期待に応えて両者間の和を調えました。しかし帰りの道中、信濃国柏原(現在の長野県信濃町)で悲劇が待っていました。  和睦を快く思わない何者かの讒言(その人を陥れるために、ありもしないことを騒ぎ立て、目上の人に悪く告げること)によって捕らえられた顕照は、野尻城にて上杉家の家臣に切腹を命じられ、その命を落とした※と伝わっています。 ※

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【5】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【4】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●常敬寺と戦国の世  永禄十二年(1569)※、第十一世顕照は十一歳の長男、了照の得度のため摂津国、大坂本願寺(俗称:石山本願寺)に上山していました。  摂津国から下総国への帰途に顕照は、親交が深かった武田信玄からの頼みを受け、越後での上杉謙信(輝虎)との和睦交渉に赴くことになりました。   ※……「真行寺」所蔵『師徳奉讃記』による。当山に伝わる由緒書の一つは永禄十一年とする。 また、当山所蔵大系図にある了

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【4】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【3】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ ) ●常敬寺の寺号および天文期のこと  第四世善栄は西光院の院号に続けて「本願寺」※1の寺号を名乗りました。しかし第六世の善鷲が本願寺蓮如上人(1415~1499)に帰順すると、長禄三年(1459)、旧暦八月十二日に 「常敬寺」の寺号を蓮如上人より受け、本願寺教団に一家衆として迎えられました。  また天文期(1532~1555)に、下総国関宿から信濃国山田郷に「西光院 浄蓮寺」※2が寺基を移しました。  このお

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【3】

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【2】

          当山常敬寺の歴史をまとめています。 (タグ: #常敬寺のあゆみ) ●西光院の創建  そののち弘安七年(1284)、惟康親王の計らいと亀山法皇(1249~1305)のご叡慮があり、下総国葛飾郡中戸(現在の千葉県野田市/旧関宿町)に当山 「中戸山 西光院」の大伽藍が建立されました。※  また併せて唯善さまに上人号が贈られ、亀山法皇より【坂東一向宗門ノ棟梁釋ノ唯善上人】と院宣を頂きました。  そして惟康親王の奏聞があり、西光院は後宇多天皇(1267~1324)の勅願所となり、赤門

          中戸山 西光院 常敬寺のあゆみ【2】