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書くこと、知らせることの原点

今の私にとってこのnoteは「書く」訓練の場だと思っている。クオリティはともあれ、少なくとも自分にとっては確実に学びになっている。

小学校低学年の頃、作文や絵日記は大嫌いだった。読書感想文なんて尚更。

そんな私が「書くこと」「書くことで誰かに何かを知らせること」の楽しさに目覚めたのは、もしかすると小学校4、5年頃の「学級新聞」だったかも知れない。

当時「新聞委員会」とか「新聞係」には必ず立候補していた。毎月のように壁新聞を作る係だ。A0サイズくらいの大きな模造紙に横線を引いて、太字マジックでタイトルや見出しを書き、細字で記事を書く。それを廊下に貼り出す瞬間はとてもワクワクするものだったのだ。「さあ、出来たよ、見て!」みたいに。もちろんお喋りしながら床に這いつくばって作業するのもかけがえのない楽しい時間だった。

当時の壁新聞の内容といえば、まずは運動会や遠足などの学校行事ネタ。それがなければクラス内のエピソード。担任の先生やクラスの誰かの面白いエピソードや笑える失敗談など。とはいえ色々な意味でゆるい時代のこと。今だったら失礼な内容だったりかなりグレーなところもあったかも知れない(この場を借りて申し訳なく思う)。

ネタが無くて、課外活動をしている児童に何か事件がないか聞いて回ることもしばしば。そんなある時、花壇で花の植え替え作業をしているクラスメイトを手伝っていたらあるものが土から出てきた。

「え、なにこれ、骨!?」

土を掘っていてやたら固いものが出てくると思ったら、骨のようなものが幾つも出てきて一同ビックリ。折しも昭和50年代は子供向け雑誌にミステリーやオカルト特集が頻繁に組まれていた頃。これは事件だ!と俄かに大騒ぎになる。

「この学校、昔は畑だったはずだけど」

「それは嘘で実は恐ろしい事が行われてたんだ」

「どうしよう、テレビ局が来るかも知れない」

子供たちの想像は飛躍に飛躍を重ねて、あたかも自分達が重大ニュースの当事者になったような気になる。ちょっと怖くて、それでいて浮き足立つような高揚感。そしてこれを皆に知らせなければ、という謎の使命感に駆られていた。

学級新聞に載せる前に裏を取ろうと職員室に駆け込み、担任の先生に興奮しながら事の顛末を伝えた。

「ああ、あれは花壇の肥やしにした鶏の骨だ」

要は堆肥としてゴミと一緒に埋められた、フライドチキンなどの骨ということ。少年少女達の探求欲と報道欲はたった一言で強制終了。そりゃそうだ、と思いながらもこのまま納得してしまいたくないモヤモヤした気持ちが残ったが、花壇に戻ってゴミと一緒に出土(笑)したそれらを元の通りに埋めていった。

こんなエピソードを経て、中学でも「報道委員会」に属し、学級新聞を作っていた。当時はプリンターなどなく、専用の「印刷室」で先生に依頼して、プリントなどを刷る作業の合間に藁半紙に印刷してもらっていた。年に1度「壁新聞コンテスト」なるものがあり、中3の時に銀賞だったか銅賞だったか、とにかく表彰された。実は中2の時に一緒に新聞作りをしていた親友とクラスが分かれてしまい、それぞれに報道委員で活動していたのだが、彼女のクラスが堂々の優勝。競うつもりはそもそもなかったが、彼女の文章と伝えるセンスは私に大きな影響を与えてくれたのだ。

高校ではそのつもりは無かったが、縁があったのか新聞部に属した。ここでは地元の新聞社に原稿を持ち込み、タブロイド判で本格的な紙面を刷ってもらっていた。新聞で使用される書体で自分の文章が印刷されると、上手くなったような錯覚もした。

他には体育祭の時など、競技の合間に部室に詰めて速報を書いて印刷し、各クラスに「号外」を配ったこともあった。肝心の競技では全く活躍できないどころか足を引っ張る存在だったゆえ、せめて情報屋として役に立とうと校内を駆けずり回ったのもいい思い出だ。

書いたものが読まれて、わずかながらも何かを伝えることが出来る。その喜びだったり昂りだったりを、今思い返すようにPCに向かっている。誰かが花瓶を割った、校舎内に犬が迷い込んできた、それらが子供にとって大きなニュースだった頃の気持ちに立ち返りながら。


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