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誤読のフランク 第17回 街を離れて、老人たちと車、覆われた車、自動車事故、未知との遭遇

US 91, leaving Blackfoot, Idaho

(noteのアンドロイドアプリって、公開設定を間違えて押してしまったら、非公開に戻せないのかな?失敗して、慌てて、この写真の記述全部消してしまった。ヽ(`Д´)ノもう!こんなのウチだけ?)

真ん中の運転をしている白人男性よりも左側の黒人男性の方が強いイメージ。窓の外は白飛びしてるから、場所も状況もわからない。
その険しい表情から、この2人は?街から逃げているのかも?な感じがする。じっと正面を見据えているように見える。まるで映画のような緊迫感が感じられる。
いままでのタイトルの付け方のパターンは「AとBの間」とか「Aの辺り」だった。この写真は「去る(進行中)」ってことだから、もしかしたらこの2人は逃亡中なのかな?と思った次第。
記憶に残る写真だよね。
ほんとに映画でこんなカットって定番になってるけど、当時はどうだったんだろうね。

人種差別のゴタゴタに巻き込まれてしまった2人は、この街を去る決心をする。当時は今より偏見の強かった同性愛だったかも知れない。ロバートフランクはひょんな事からゴタゴタに巻き込まれてしまって、こっそりと旅立ちを見送る。自身も追われるようにして、この街を離れる。なんてこと、ロバートフランクが死んだらアメリカンズを題材にしたロードムービーが作られそう。そして、そんなシーンがあるかも!なんてワクワクしてしまう。のだが。

ホントはどうだったかこの写真だけでは、わからない。でも進行方向が真っ白というのもこの写真をより印象的な雰囲気を作り出している。

Blackfootってどんなとこだろうと思って、調べてみたら、アイダホポテトの産地だって。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Blackfoot,_Idaho

やっぱり、こんな話。農場の監督の若妻とうっかり恋仲になってしまった若い黒人男性。監督は若妻を殴っていて、可愛そうだたぁ惚れたっつうこと。Pity is akin to love.ってやつ。
でも、そうなったらただでは済まないことは分かっていたとおり、銃を持ってその若い黒人は追われることになる。監督の前妻の息子はその男を森の奥の小さな小屋に匿って、やがて月夜の晩に男を逃がすことにする。

上のWikipediaによると、1950年5000人代、1960年7000人台の小さな街。だったら単に「俺ら東京さ行ぐだ」って話かも知れないけれども。

ちなみに、この写真、今回ちゃんと見るまで、トラックだとばかり思い込んでた。横に並んで3人ぐらい乗れるトラック。狭くてぎゅうぎゅうってイメージ。Leavingってあるから、ロバートフランクも一緒に乗ってるように勘違いしてた。

でも、このアメリカンズは、被写体が見ている風景を描いていると(今のところ)考えられるから、主語はロバートフランクではないよね。だから、街から離れているのは、この2人の話だと考えてみる。
さらに、この当時のレンズって少なくても80センチぐらいは離れないとピントが合わないから。どんなレンズ使ってるかは知らないけども、ロバートフランクは、助手席側の窓を通して撮ってると考えるのが良さげ。車は普通の乗用車。空の飛びかたを見ると、日中。背景はなんとなくガソリンスタンドとかで、街で出会った若者たちと、ガソリンスタンドでばったりあった時に、街を出るんだなんて会話。じゃあね。なんてことがあったのかなかったのか。ちょっと真面目な顔して正面をみて、みたいな会話があったのかなかったのか。。うん、この写真だけで色んな物語ができるよね。

あ。もしかしたら何枚か前のカウボーイと呼応してるよね。あれがあってこの写真が生きてくる。

※この項、書いてひと月ほど経ったあと、たまたまエグルストンの「ポートレート」という写真集を見たら、エグルストンがこの写真と同角度で撮っているものを発見した。この写真、車の中から撮られていると思って良さそうだ。あ。あったあった。これだ。

http://aphotoeditor.com/2016/09/16/this-week-in-photography-books-william-eggleston-2/

ほら、撮れてるね。手前の黒人が居ることでロバートフランクの方が強い写真になってるけど。



St. Petersburg, Florida

で、多分前の写真で2人はこんな車に乗ってる。(きっとこんないい車ではないだろうけど)セダンタイプ。
この写真で奥に走っているのは、Chevrolet Bel Air かな? 車については(も?)よくわからないから、まーシボレータイプで、最新の車としておこう。馬力があって、最新で、若い。そういう車。詳しい人教えてください。教えてくれなくても結構です。たぶんあまり内容には関係ない。

手前でバスを待っているのか、座っている年寄り達と対比できるような車。と、すれば、前の写真は年寄りとの確執が原因で、街を離れる、という、ストーリーが浮かぶ。

だんだん分かってきたのだけど、この本はアメリカそのものを写し撮ってる訳ではなく、アメリカの色んな部分をそれぞれのニッチなレイヤーを使って、積み重ねているように見える。
アメリカ軍の話、地方自治、政治的な背景、街を闊歩する様々な人種。人々が見ているもの。対峙しているもの。それを撮ることによって、そこから派生するアメリカ人の生活を描こうとしている。なんて、書いてみると、なんか定番の記述って感じで嘘っぽく聞こえる。でもそれぞれのピースが、他のピースに絡みついて、多層的なイメージを描こうと意図しているように思える。

あと、本の編成については、構図で常に対立、左右に振ったり白黒逆転させたりして、読者の視線を常に動かしている。

この写真は角を起点に対角線に線をひくと、わかりやすくなる。
少し上が小さな3角、それにぶつかるように下からせり上がった大きな3角。軽い(早い)ものと、ゆっくりとした(止まった)もの。明らかに、その2点の対比が行われているとみて良い気がする。

セントピーターズバーグは年間360日晴れと言われてるみたいで、保養地や観光地として成り立っているみたい。老人達は新しい車を見ていない。
晴れ。乾燥。
そっか。それで、繋がるのがロングビーチ。


Covered car - Long Beach, California

ロングビーチも避暑地や観光地として有名だよね。日除けのためか壊れてしまったか、放置されたままの車なのか、それとも一時的なのか。影の様子からみると、夕方の強い日差しだろう、ギラギラと照らされた太いパームツリーにシルバーの(銀塩のトーン!)車のカバーが、どこからどこまでこの写真には、とても存在感がある。

余談だけど、デジタル写真と銀塩写真の大きな違いで、デジタル写真の一番難しいところって、モノの重さを例えばモノクロの諧調で表現するのがとても神経を使うところではないかと思う。銀塩はもう物質として影の部分は重たい。下手をするとデジタル写真は表面的に過ぎてしまう部分が出てきてしまいやすい(のだろう)。もちろん、表現の上手な方はそんなことは関係なく、同じように表現できるのだが。
この写真もデジタルだったら銀色のところ白とびしやすいよね〜なんてよけいなことを考えてしまうけども。どっちみち余談だ。

車社会アメリカ。
ちょっと面白い話をみつけた。
https://blogs.yahoo.co.jp/sfscottiedog/64345451.html
「ヨーロッパに比べアメリカの車社会化している9つの理由」という文章の抜き書きで、そこに<1930年代には2世帯に1台の車普及率を達成>したという部分がある一方、<公共交通機関:米政府は公共交通機関への補助をほとんど行わず、過去に存在した私鉄や私バス等は1950年代には、ほとんどが潰れて消えてしまった。>ってところ。

前の写真のベンチは、なんとなく乗り合い馬車とかバス停のイメージがしてるんだけど、なくなってしまったバス停のベンチがそのままになってて、近所のじいさんばあさんたちの寄り合いの場所になってる、みたいなのってあり得る話だろうか?
老人達の視線はそれぞれ別の方向に向いている。もう新しいものは必要ない。

写真に戻ろう。新しいはずの車はカバーされている。見えなくなって隠されている。

この写真、もう最初の頃に見られた三分割の右側のラインは見当たらない。一応、パームツリーで三つには区切られている。でもその交点に特別力が入ってるわけではない。
このところ、(ホテルの窓の写真から?)正面から撮られたものが増えており、むしろ、中心に主題があることが増えた。いま思うと、あの頃の三分割の右側ってなんだったんだろう。

建物もフレームインフレームの役目というより、書き割りの背景というようにも見える。書き割りの背景に主題が前にぽんとあるというのは、ロバートフランクの癖、というより、ストリートスナップのある種の業のようなもので、ブレッソン的な世界の捉え方、ファインダーを見すぎるがために、構図と被写体が構築されすぎてしまう部分があって、それをいわゆるストリートスナップの基準としている人は、世界中に多いが、それは、ただの基準のひとつとしてだけ考えておく方がよいのではないかと、最近は感じてる。
で、この写真も、どこか背景の建物やパームツリーは書き割りの背景のようにも見える。
これはミイラのようにカバーされた車。じっと見てたら、もしかして、これはフェチな人にはエロスを感じるのかもしれない!なんて思ったのだけど、むしろ、タナトスの方に、寄っていると思う。まるで、動かない死体が袋に入れられてるみたいで、街を離れるために車に乗る。街を走り抜ける。動かない。そして、次の写真につながる。


Car accident - US 66, between Winslow and Flagstaff, Arizona

このページも長くなってきたけど一気に行こう。車特集だ。
で、自動車事故。ルート66。ほら、ここでもAとBの間って書いてる。
保安官と最初に見つけた近所の人か、野次馬がいないのが田舎の証拠。ビニールに包まれた車と死体。
霊柩車を待っているのだろうか。なんとも言えない写真だ。これよく見ると埃が舞ってて、チリチリとしてる写真。立ってる四人の方が幽霊のようにも見える。

Weegeeのように扇情的にならないのはロバートフランクだからか、それともフラッシュがないからだろうか。Weegeeならば、きっと覆いをはがして撮影しただろう。で、ロバートフランクはWeegeeを知らないはずはない。

積極的にSNS発信を続けるエリックキムがウージーについて書いてる。
10 Lessons Weegee Has Taught Me About Street Photography by Eric Kim
https://issuu.com/bintphotobooks/docs/weegee

ウージーは事件の写真が有名だけど、人を撮った写真はまた格別に良い所があって、案外メインで有名な写真よりもサブシリーズの方が味わい深いから、写真は難しい。アラーキーは街の風景写真が良いし、篠山紀信は人が写ってないスナップ写真だし、あれ、なんだっけ、あ、ウージーだ。ウージーはそういう意味でなんにも区別付けなかったんだろうななんて思う。

広角のレンズで周辺が湾曲している。28mmかそれ以上の広角だろうけど、これも今までにない感じ。アメリカンズに出てくる写真はだいたい真っ直ぐで、正面で、やっぱりちょっと演劇チックだな。

ここで、重要なのは対象が見えないこと。一貫して、視線の先にある対象は写真に写ってない。

ルート66ってスタンダード曲あるね。ストーンズとかも有名だけど、1946年のナッキンコールのヒット曲から。
https://youtu.be/dCYApJtsyd0

そして、車のシークエンス最後。


US 285, New Mexico

はい、未知との遭遇。UFOロード。
ロズウェル事件のロズウェルですよ。って、分かるかな。ロズウェル事件は以下のWikipediaで。285号線はロズウェルに続いている。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Roswell_UFO_incident

ってUFO話に引っ張られてはいけない。
この並びでこの写真は、車の話だ。車の話だけど、やっぱりUFOに続いている話だと思わなくもない。荒野を走る1本の道路。地平線は薄で薄暗く、焼き込んだのか、それとも空の濃い青か。まるでSF映画のようだ。

1940~50年代、米ソ冷戦の高まりに従って、サイエンス・フィクションが一般的に広まってきた。ジュール・ヴェルヌは1860年代からあるけど、「Sci-Fi(サイ・ファイ)という略語は1954年にフォレスト・J・アッカーマンにより公式に用いられた。」と言われているらしいし、より一般的に人々がSFの物語に触れることになっていた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/サイエンス・フィクション
となると、ちょうどこの写真が撮られた時期はSFが「心地よい終末」の物語と共に(ネブィルシュートの「渚にて」のように世界の滅亡の物語)広まり、SF映画もかなり作られるようになっていた。 HGウェイルズの「宇宙戦争」(1953年)とかもあるし、いろいろ今でも名作(迷作)と呼ばれている映画が沢山作られるようなった。
http://cinema-rank.net/janru/sf/1950
いま探してみて、うわって驚いた。この黄金のラインナップを見よ!だ。それこそSci-Fi AWAKE!な事件だ。ついでにTVもすごい。
https://www.imdb.com/list/ls000097346/
そんな中で、上記のロズウェル事件だ。そりゃ、男の子がわくわくするよね。そのわくわく具合は、1980年代日本の「ノストラダムスの大予言」の比じゃないだろう。

それでロバートフランクもエリア51方面に向かってみたのだろう(あくまで想像だけど)。

仮説だけど(そもそもこの「誤読のフランク」は仮説だけで成り立ってるが)、この写真もロバートフランクは「アメリカの人々が見ているものを、撮っている」と仮定すると、その Sci-Fi に沸き立つアメリカ人たちが想像してるSF的なイメージを、ここに持ってきたのではないか。それも自動車というある種の移動する機械をUFOに見立てて(ほんとはIFOだけど)、この写真集のこの場所に置いたのだろう。
真ん中にタイトルを入れたらそのままSF映画のポスターになりそうな写真でもある。

ちょっとまじめに書いてみると、SFはそもそも仮定の話だ。空想ともいう。それは確定していない、未知のもの。この一連の車のシークエンスは街を出た若者が年寄りの世界を抜け、事件に合い、現世を離れて宇宙に行った、とか、トラブルに合いながらも遠くへ、まだ見ぬ地へ走り去っていった(ご丁寧に、水平線に消えかかる間際に小さく、一台の車の影が見える)、とか、いや、この小さな車は対向車線だから、新しい何かの存在に出会うという、物語上の暗喩を促すための移動手段としてのモータリゼーションを図らずも(図ってか)、描き出しているようにも見える。

未来の不確かさ(ギャンブル)
新規を見ること(隠居老人には関係ない)
シートで隠された何か(シュレーディンガーの猫)
未知との遭遇

イメージを積み重ねることによって、ロバートフランクのこのアメリカ人は、いつしか旅の途上であるロバートフランク自身の物語を想起させてはこまいか。旅は常に未知の世界につながる。

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