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南田原の「六地蔵塔」。

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ここは佐伯市宇目、「南田原」地区。読みは、ミナミタバル

なぜかこのあたりの地名の多くは、「原」をハラではなく、ハルと読みます。

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水田が美しい地区。奥には、明信寺が見えます。

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さて、こちらに石塔があったのは知っていました。

まさか指定文化財だったとは・・。

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車を停めて、ちょっと休憩するのにいい場所で、この日はなんとなく石塔の説明を読んでみたのです。

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凝灰岩でできた石塔で、高さ186センチメートル。

もともとは「笠の上」に「宝珠」もあったというが、この説明にも「紛失したためか、無い」と記載があります。

また、石塔は、6面に地蔵が彫られています。なぜ6面なのか。凝灰岩ということは火山由来。マグマが冷えて固まる際に、六角形の形に収縮する作用「柱状節理」を活かした形状なのでしょうか。

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基礎の上の「憧身(どうしん)」には、石塔の造立趣旨が記されていたそうですが、長年の風雨によって、詳細は不明となっています。

ただ造立したのは、次のふたりとのこと。

常敬寺 住職」と「田原村 小庄屋の佐保喜左衛門さん」です。

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常敬寺 住職」とは、どんな人なのでしょう。説明には、鶴崎出身の住職だとあります。では、なぜ宇目に?

ここからは、わたしの想像です。石塔の説明を読み解くと、「常敬寺」は、この南田原にある「現在の明信寺」のこと。そして、さらにこの寺は、木浦にある正蓮寺の「道場」という位置づけだったようです。修行のために訪れ、その後、住職となっていったのでしょうか。(間違っていたらすみません。)

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では、何のために造られたのか。

その理由は、常敬寺の過去帳にあったようです。ずばり疫病です。なんと。歴史はくりかえされます。檀家さんに疱瘡や不明の変死が続いた記録が残っています。さらには、享保の大飢饉です。(なるほど、1730年代。江戸時代ですね。)

ここで、田原村 小庄屋の佐保喜左衛門さんが動きます。常敬寺 住職田原村の石工に、供養のために石塔をつくることを命じたのです。

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ほんとに切実な思いだったことでしょう。

そういえば、この場所はこの地区の中央のようなポイント。六面の地蔵は、全方位をカバーしています。なるほど、そういうメッセージですね。「すべての田原村の村民を守りたい」、今もなお、この地を見守り続けます。

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