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『烏野高校vs白鳥沢学園高校』が伝えたかったこと

いつか観なくては(読まなくては)と思い続けていた『ハイキュー』

先日、プライム・ビデオでエピソード4まで一気に観賞したのだが、私が想像を遥かに超えた作品でした。ありきたりな高校生の青春・スポ根的ドラマではなく、バレーボールに関わる全ての人にとって必見(必読)とも言える作品だと言えます。

本記事では、特に作者のメッセージを強く感じたエピソード3をピックアップし、ここで視聴者(読者)に最も伝えたかったこと、さらに言えば『日本バレーボール界』に伝えたかったことについて書いていきたいと思います。

『ハイキュー』エピソード3の概要

まず、『ハイキュー』のエピソード3の紹介文を引用しよう。

春の高校バレー宮城県大会・決勝戦。烏野高校排球部の前に立ちはだかるのは、絶対王者と呼ばれる白鳥沢学園高校。最強のスパイカー・牛島を前に、果たして勝機はあるのか!?全国大会出場へ向けた激闘がいま始まる――。

出典:プライム・ビデオ

上記の通り、エピソード3は極めてシンプルな展開となっている。春高バレー宮城県予選決勝のみがフューチャーされていて、全10話の構成。しかし、この10話を通じて作者は明らかに何かのメッセージを送ろうとしている(と私は個人的に確信している)。全作品を一つずつ楽しんでいただきたい気持ちは山々ではあるが、ひとまずは全体の流れを知りたいという方には下記のサイトがオススメである。

ハイキュー!!アニメ3期の全話タイトルとあらすじ!烏野高校VS白鳥沢学園高校

両チームの比較から見えてくるもの

さて、エピソード3は烏野高校と白鳥沢学園高校の2チームがあらゆる面において対極的構図で描かれている。そのために、複数の視点から両チームを比較してみることで作者の伝えたいものは顕在化してくるように思う。本記事では、下記の2つの視点から両チームを比較し、その違いから作者のメッセージを紐解いていきたいと思うのである。

1.  監督・コーチの比較
2. ゲームモデル(コンセプト)の比較

1. 監督・コーチの比較

それでは早速、両校の監督・コーチのプロフィールを簡単に見ていきたい。以下にまとめてみる。

【烏野高校】
監督:武田一鉄
職業は現代文教師。バレーボール顧問。バレーボール経験なし。

コーチ:鳥養繋心

職業は坂ノ上商店オーナー(おそらく個人事業主)。烏野高校バレー部OB。父は烏野高校バレー部の元監督

【白鳥沢学園高校】
監督:鷲匠鍛治
年齢 71歳。40年間の指導歴がある。バレーボール経験有。最近の悩みは「自主性のある生徒が減った気がする」である。

コーチ:斉藤明
バレーボール部副顧問

さて、ここまで対極的な描かれ方もないだろうというくらい対極にあるのが、監督・コーチのキャラ設定である。私はこのキャラ設定自体が、作者から今まさにバレーボールのコーチングに携わる人、コーチングに携わろうとしている人に対する問いかけであるようかのように感じたのである。その問いとはつまり、次の通りである。

あなたはどんなコーチになりたいのか?

さて烏野高校から見ていこう。まず監督(顧問)はバレーボール経験がなく、体育教師でもない現代文教師である。現実世界でも、公立高校の部活動の顧問を専門外の教師が担当することは決して珍しくないパターンだ。武田監督は自身の経験のなさや知識の不足を自覚していると考えられる。それはバレーボールを学ぼうとしている様子が作品中の至るところで感じとることができるからだ。そして、いくらバレーボールを学んだとしても、自分自身ではすぐに補いきることができない部分があることも自覚しており、それを埋め合わせるため誰に求められずとも、自ら行動して坂ノ上商店オーナーである鳥養に熱烈なオファーを出しリクルートしているのだ。また、彼はプレーヤーを成長させるための環境設定にも力を惜しまない。かつて高校間で縁があったが、すっかり疎遠になってしまっていた音駒高校に執拗なほどに電話をかけ強豪校との貴重な練習試合の設定を行ったり、遠征の段取りをしたりとチームマネジャー的な役割を担っているのである。自分にできること(できないこと)、自分がやるべきこと(やるべきでないこと)を理解している人物である。また、現代文教師であることも影響してか試合前にはいつもプレーヤーの心を奮い立たせるような言葉をかける言語能力を擁している。また、試合中も不利な状況やプレーヤーのミスが出たとしても怒鳴ったり、激昂したりするようなことは一切ない。極めて冷静にゲームを観ながら、コーチとともにプレーヤーの素晴らしいパフォーマンスを素直に喜んだり、コーチと密なコミュニケーションを取りながら最適なサポートを常に提供しようとする姿が印象的である。
次に、コーチについて。鳥養コーチは自身が烏野高校のOBでバレーボール経験があり、彼の父は烏野高校の元監督である。こうした背景からもバレーボールに関する一定の知識があることが伺われる。しかし、自身の経験やこれまで蓄積してきた知識だけに頼ったコーチングをしている様子は一切感じられず、強豪校のプレーから新しい戦術を学ぶ(真似る)姿勢ももっている。そして、プレーヤーへのリスペクトを片時も忘れることはない。それぞれのプレーヤーが持つ特性を分析・理解しており、それぞれが最も活きる適切な役割を提供している。また、試合前には過去のチームメイトの力を借りるなどして対戦相手の分析作業も欠かさないのである。
さらに、彼について特筆すべき点(彼の個人的資質とは関係ないが)はいわゆる『外部指導者』であるという点だ。彼の主な職業は高校教師ではなく坂ノ上商店オーナーである。つまり何が言いたいかというと大きくは二点ある。一点目は『評価する側と評価される側という上下関係から解放されている』という点である。高校の部活動では、そのほとんどがコーチという役割を「教師」が担い、プレーヤーという役割を「生徒」が担う。そのため、本来的には対等な関係性にあるコーチとプレーヤーという関係性の中に、上下関係が持ち込まれてしまうことが往々にしてある。私自身、高校教師をしながら部活動の副顧問をしていた経験があり、そこでの苦い経験からもこの点については確信的な思いがある。もちろん、部活動においてもコーチとプレーヤーという対等な関係性を築くことは可能だが、その点についてかなり意識的でいない限りはおそらく自然と上下関係のようなものが生まれてしまうように思うのだ。しかし、彼の場合は幸いにも高校の近所にある高校生等にとっての溜まり場的な場所でもある商店のオーナー。近所の「にいちゃん的」立ち位置だ。対等な関係性でありながらも、少し先を生きているリスペクトすべき先輩といった関係性と言えるのではないだろうか。そして二点目は『専門的知識を持つ外部コーチの登用』という点だ。現在、都心部を中心として試験的に中学校や高校での部活動で外部指導者の導入が実施されている。この政策の主な狙いとして教師の働き方改革といったものがフューチャーされがちであるが、やはり最も重要なのは質の高い指導(コーチング)ができる人材とプレーヤーが出会うことで『プレーヤーの可能性を広げることができる』という点ではないだろうか。彼に出会ったことで烏野のバレーボール部員たちの可能性は一気に広がったということは言うまでもない。こういった意味でも彼の絶妙な立ち位置を作品の中で描き出していることには何かすごく作者からの『意図』や『意味』を感じるのである。

さて、烏野高校の監督・コーチについてここまで熱く語ることになるとは思わなかったが、ここからは白鳥沢学園高校を見ていこう。まず、監督の鷲匠鍛治について。彼は誰から見ても圧倒的な指導歴と指導実績を持っている。そして、白鳥沢学園高校が「私立高校」であることからもおそらく40年という気が遠のくような時間を、転勤もなくずっと同校にて指導してきたと予測される。こうしたケースは実際、バレーボールに限らず私立高校のスポーツ強豪校では珍しくないように思う。しかし、一人の人間が同じ組織(ここではバレーボール部)のトップ(ここでは監督)に立ち続けることについては良い面と悪い面の両面があると言わざるを得ない。その一つとしてまず一番最初に挙げられるのが『揺るがぬ伝統』ができることではないだろうか。プレーヤーの悪いパフォーマンスに対しては激昂し、怒鳴り上げるコーチング・スタイルや個の育成に重きをおく育成の考え方、それに基づいたゲームモデルといったものは彼が白鳥沢学園高校の監督でいる限り決して変わらないだろう。こうした目には見えない組織文化みたいなものが長時間に渡って醸成されていくことでそれは『揺るがぬ伝統』となるのだろう。ただ、これは良い面と悪い面があってその伝統が次世代へと引き継がれることによって、うまくいくことも当然ある。実際、白鳥沢学園高校は常勝校としてその名を全国にまで轟かせている。これは『揺るがぬ伝統』の良い面である。しかし、世の中(ここではバレーボール界としよう)が劇的に変化・進化していく時代においては『揺るがぬ伝統』が残念ながらとても大きな足枷になってしまうということもあるのだ。次に白鳥沢学園高校のコーチである斉藤明についてだが、正直言ってキャラとしての存在感が薄い。逆に言うと監督のインパクトが濃すぎるというべきなのかもしれない。名将の後を継ぐことになる若手のコーチといった位置付けだとは思うが、本記事で詳しく書くことも特にないので次にいきたいと思う。

2. ゲームモデル(コンセプト)の比較

さて、次に両チームのゲームモデルを比較していこう。

バレーボールのフィクション作品に出てくるチームのゲームモデルを言語化するなんてどうかしてる。

そう思われた方がいるかもしれないが、私は「イケる」と思ってる。無理矢理感は多少出てくるかもしれないが、イケるはずだ。ゲームモデルとは一体なんだ?と言う方は是非下記の記事も参考にしていただければ幸いである。

参考記事:ポーランド男子代表チームのゲームモデルとプレー原則について

では、早速両校のゲームモデルをまとめていこう。ただ、最初に一点断っておきたいことがある。参考記事にあるゲームモデルはゲームの各局面におけるプレー原則にまで詳細に記述しているが、本記事では少しばかりざっくりとしたゲームモデルの記述となることをご理解いただきたい。10話という限られた時間の中からできる限り、両チームのゲームモデル・エッセンスを抽出し、言語化を試みているが読者の満足いくものになるかは正直自信がない。しかし、やってみよう。トライアル&エラーが人を成長させるのだから。

【烏野高校のゲームモデル】
・あらゆる局面において、数的に優位な状況を生み出すことを最優先にしてプレーする。
▶︎プレー原則(アタック局面)
・相手ブロッカー対し、アタッカーの数的優位を生み出して攻撃する
▶︎プレー原則(ディフェンス局面)
・フロントディフェンスとフロアディフェンスの連携によるトータルディフェンス

【白鳥沢学園高校のゲームモデル】
・あらゆる局面において、各々のプレーにおいて個の能力が高いプレーヤーに優先的にボールを集めて戦う
▶︎プレー原則(アタック局面)
・個の攻撃力が高いアタッカーにボールを集中的に集めて攻撃する
▶︎プレー原則(ディフェンス局面)
・プレーヤーの予測・直感を基本としたゲス・ブロックでカウンターをしかける
・プレーヤーの予測・直感を基本としたフロアディフェンス

こうして、両チームのゲームモデルを記述したがいかがだろう。この驚くべきほどの対極性に誰もが気づくだろうと思う。烏野高校が個の能力を掛け合わせた上でプレーを展開する一方、白鳥沢高校は個の高い能力を拠り所としたプレーを展開する。どちらも確固としたゲームモデルを持ってプレーしていることは明白だが、日本のバレーボール界は、一体どちら(依り)のゲームモデルを志向すべきなのだろうか。作者は作品の中で、対極にあるゲームモデルを提示し、戦わせることによって日本バレーボール界に対して大きな問いかけをしているように感じるのは私だけではないはずだ。

選手はソリストではなく、オーケストラの一員

さて、それではエピソード3が伝えたかったメッセージが何かということについて「監督・コーチの比較」「ゲームモデルの比較」といった二つの視点から考察してきたが、私なりの結論をまとめていこう。あまりにも有名な言葉で大変恐縮ではあるが、この一言にすべてが集約されているのだと思っている。世界の名将、ベルナルド・レゼンデ氏の残した言葉である。

”選手はソリストではなく、オーケストラの一員。
一人でも「僕は特別だ」と思ってしまったら、もうダメなのです。”

私の主観となってしまうのかもしれないが、白鳥沢学園高校のエースである牛島は「僕は特別だ」と思っていたと思う。それは彼自身が慢心していたとかいう話だけではない。それは、監督・コーチやチームメイト、そしてその周りを取り囲む環境が、彼に特別だという意識を与えたに違いないだろう。チームとして「ソリスト」を生み出してしまったと言えるのかもしれない。また、これは天才的な勘を持ってキル・ブロックを炸裂させるミドルブロッカーの天童もしかりだと思う。彼もおそらくは「僕は特別だ」と思っていたはずだ。さらに言えば、中学時代から注目され、同高校にスカウトされた全国常連の白鳥沢学園高校のメンバー一人一人が「僕は特別だ」と思っていたのかもしれない。これに対して、烏野高校のメンバーはそれぞれが多彩かつ高い能力を持ちながらも全員が「6人で強いほうが強い」という考えを持ってプレーしていた。そのプレーヤーにしかできないようなスーパープレーが出たとしても、それはあくまでチームメイトの「お膳立て」があってのプレーであるということを身体と頭で理解していたのである。彼らは「オーケストラ」であったのだ。私自身、プロのオーケストラを生で鑑賞したことはないが、もし仮にそれぞれの楽器が演奏する音を「バラバラ」に聴いたとしよう。そこにはおそらく感動も起こらないだろうし、素晴らしいと感じることもないだろう。

このエピソード3は、日本バレーボール界全体にメッセージを送っている。

私はそう考えている。そして、そのメッセージとは次の通りだ。

日本のバレーボール界は人々が感動する「オーケストラ」をつくりたいのか。それとも「ソリスト」の集まりをつくりたいのか。

本記事のまとめを執筆している中、東京オリンピックで男子代表チームが29年ぶりに決勝トーナメントに駒を進めるという大変嬉しいニュースが飛び込んできた。彼らのプレーする姿を見て、確信したことのは彼らは「オーケストラ」であるということである。メディアでは特定のプレーヤーだけがフューチャーされてあたかも「ソリスト」のように扱われるが、おそらくそのプレーヤーは自分を「僕は特別だ」とは思っていないだろう。

最高のオーケストラ(強い日本代表)をつくりあげるには途方もない時間がかかる。その時間単位は10年、いや20年であると思っている。このスパンで強い日本代表をつくろうと考えるのであれば、グラスルーツから育成カテゴリ、トップチーム、すべてのカテゴリーに関わる人たちが一つのビジョン(日本代表のあるべき姿)を共有し、そのビジョンを具現化するために必要な全カテゴリを串刺しにした一貫システムを創り上げ、そのシステムを動かしていく必要がある。

正直、今の日本バレーボール界は上記のような状態からは程遠い状況にあると思う。しかし、今回の東京オリンピックで男子代表チームが戦う姿が、長期的視点で最高のオーケストラをつくろうという気運を生み出す『きっかけ』になるのではないかとひそかに期待している。


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