『仏蘭西料理と私』~No82 心の扉を開く~【龍圡軒 四代目店主 岡野利男シェフ】
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昨日の日曜日の朝、私が一番嫌いなものを見てしまいました。
それはテレビの番組内で、韓国のバレーボール選手のいじめの問題を取り上げて、色々と意見を述べている番組で出てきた意見の1つに「自分はいじめているつもりはないのに、相手の受け止め方による場合がある」と云った件です。
これはずるい。
こんな言い訳を大人が云っている間は、いじめはなくならない。はっきりといじめはダメと云わなければ。たぶんこの文章を読んでいらっしゃる方々のほぼ9割9分9厘の方は、幸いにもいじめを経験なさっていないと思います。しかし、半数以上の方々が、どんな形にせよ、ご自分の周りで見られたことがあると思います。
たしかに3人集まれば派閥が出来ることは分かりますが、「派閥イコールいじめ」の論法は間違っています。韓国で起きたいじめでは、被害に遭った方々が、勇気を出して声を上げたことで、表沙汰になったんだと思います。
日本でも北海道で子供時代のいじめの恨みの仕返しに、ブドウ酒に何かを入れた事件があったと思い、調べましたが載っていませんでした。しかし、昭和62年に、中学1年生の女子がいじめに耐えかねて給食に農薬を混入して、43人が入院と書いてありました。
いじめられた方々は、決してその恨みを忘れません。
私も小学校5年生のときに1度ありました。何がことの始まりかは覚えていませんが、ある女の子が私のことを「おぼっちゃま」と言い始めたのが発端でした。私がそれに対して、反発したので、それに対して火の粉が燃え上がったように記憶しております。たしかに彼女、彼らに云わせると、クラスのなかで唯一、人を使っている商人の子でした。
級友のなかにも、田中君という帰り仲間のご両親が呉服屋さんでした。あと女子で一番背の高い仲の良かった江戸の家も、今では信じられないでしょうが、六本木の交差点から15m下がったところの炭屋さんでした。他の子達はサラリーマンの子供たちだ、ったのです。あっという間に、いじめが広がりました。このときに、物云えぬ大衆ほど怖い物はないと思いました。
しかし私のことです。黙っておられずにクラス会議に上げて、30対1で戦い、論破しました。潮目が変わると付和雷同、あっという間に、でした。そして残った、女の子の顔は一生忘れないです。今年で69年目の人生ですが、私の記憶で最初に出てくるのがこのことです。これはいじめを受けた方でないと分からないと思います。
そして、昨夜の夜に2.26事件の録画番組を見て、そのなかの最後の方に一言、“教育ほど怖いものはない”がありました。私もそう思います。いつ、どこで、誰から、どのような教育を受けたかによって、大きな影響を受けますから。
コロナの影響で大学の授業がテレワークになったことによって、この頃よく、大学に出席していないので友達が出来ない、遊べないが、テレビで聞こえてきます。
しかし、コロナの前から、私には“大学イコール遊びに行くところ”、大学を出たら遊べない、としか聞こえないのです。そんなバカな。学業を終えて仕事に就いたならば遊べないと云っているのと同じで、そんな奴、そう、あえて奴は、子供のときから学業についても、就職しても、そして退職してからも、遊べない奴。遊ぶ心を最初から持っていない、可哀相な奴なのです。
ドミニックが、バカンスに行っていたクラブ、メディネランネから帰って来たときに「Toshio、女の子がメソメソ泣いて訴えてきたんだ」。
「何で?」。「誰も私を相手にしてくれない、いつも独りぼっち、と。それで俺は云ってやったんだ。あなたが自分でだれも相手にしてくれないと思っている間は、誰もあなたを相手にしないよ。自分から入って行かないと。その扉を開けるのは自分で、周りの人ではないよ。誰も戸に鍵を掛けてはいないよ。自分で戸を開いて中に入らないと、ずっとこのままだよ、ってね。Toshio、どう思う」。
「ドミニック、お前の云っていることが正しいと思う。なかなか、そこまでその子のことを考えて云えないけれども、次回そのようなことがあったら、俺もそのように云おうと思う。ありがとう」でした。
これが先ほど書いたバカな奴で、そしてもう一つ、学校は遊びに行くところではない、と云うことです。
たとえ、どんな言い訳を云おうと、中学1年から高校3年まで6年間、英語の授業があるのに、英語が使えない。日本にいる間は、必要ないなんてくだらない言い訳をいうバカは置いておいて、こんなくだらない授業は、時間と労力の無駄だから止めても良いと思います。
また、それを使えるようにできない教師だったならば退職していただいて、他の者に替わってもらえば良いわけです。
たとえば、週2回2時間の自動車教習を6年間受けて、自動車の運転が出来なくてもしょうがないと、云っているのと同じです。
もう一つ踏み込めば、学校に行くのではなく、行けるとはどういうことなのか、ということです。そして、行けたのであれば、何のために行くのか、ということを次回に書きます。
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