未完成のサグラダファミリア

人生にはもちろん酷い瞬間もあるけれども、ずっと酷いってわけでもない。何か辛いことが起こった時に、悪くない箇所が見えなくなるだけで。そういう時は、自分があたかも世界で1番可哀想で不幸な人間に思えてしまう。側から見ると、奈良県の山の中の短い国道にたまたま迷い込んで、後退できないってギャーギャー慌てふためいているようなものなのよ。なんて滑稽、そんなこと重々承知しているけれど、私もしんどい時は世界一不幸型マインドセットになる人間です。

けれど人生はやり直しが効かないっていうのはそう。人生という単位で見た場合はね。日々の小さな選択は確かにまだやり直しが効きやすい。昨日の晩御飯、お寿司かパンか悩んで、「お寿司やっぱ食べたかったなーー」ってパンで口をカラカラにしながら思った。けど、そんな時は今日お寿司にすればいいだけじゃんね。でも、もっと、時間的に取り返しのつかないものはどうしようもない。今週末はサグラダファミリアを見にバルセロナに行こうと思っている。あれ、2026年についに完成するんだってね。「「未完成のサグラダファミリアを見た人間」」という称号を逃す、これって人生はやり直しが効かないの例になるのかな。ああ、むしろやり直しが効かないのはサグラダファミリアの方か。出来上がった時に「うーん、塔のてっぺんの星、もっと大きい方が良かったのに…」とか思ってもどうしようもない。他人に設計されて、他人に造られたものなんだから。本人(?)に選択権がないのが運の尽きだね。

明らかに間違った選択をしたことはもちろんあるけれど、人生やり直したいって思ったことはない。簡単にやり直せないことを重々承知しているから。選択にはある程度の迷いがつきものだけれど、この迷いっていうのが厄介。他人、環境、エトセトラ。何かに取り巻かれている時点で、選択のハードルがぐんと上がる。そういうしがらみから脱してただ独り歩むのもいいけれど、人間界に生きる限りその方法はほとほと現実的ではない。だから選択する前に悩み抜く。悩んでいる間はそもそも選択をするべきではない。悩み抜いたあとは、エイッと次へ進むボタンを押して、後悔はしない。反省も大概しない。

出来上がってしまえばそれでおしまい。あとは神格化されたり、落書きされたり、本人の知らないところで完成品への追加のレッテルや考察が加えられていくだけ。けれどそこにとうの本人の意思はないから、人生の一部ではもはやない。意思のあるうちに、無完成のうちに悩み苦しめというのが結局人間に与えられた特権なんだろう。選択は苦しい、選択肢が多いことは自由を意味しない。けれど、沢山悩んだという免罪符の効力は絶大ということを私は知っている。それに結局のところ選択に当たりもハズレも実はなくって、選んだあとはそっちが正解だったように思えちゃう。ほんとよくできてるわ、人間。

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