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場という力

昨今では、例えばひと昔前までは、特定の場所でないとできないこと、例えば風呂は銭湯でないと入れなかったり何か専門的なことを学ぼうと思ったら、大学というところに行かなければならなかったが、現代ではなんでも自宅やインターネットにつながっていれば入手できる時代になった。

また自宅でしかできなかったことも、他の屋外などの場であっても享受できるようになった。
例えば電話は固定電話からスマートフォンになったことで、どこでも誰かとコミュニケーションができるようになった。

このように、一言で言うと便利になった、といってしまえばそれまでだが、いつでもどこでもということが当たり前になりつつある。そんな中で「場所」というものの力というものを改めて考えてみた時に、その場でしか感じることができない、味わうことができないものというのがあるのではないかと思う。

例えば図書館というのは独特な場である。静かな中に微かな雑音があり、集中するにはもってこいの場所だ。昨今Amazonで大抵の本は入手できるようになった。もちろん本というのはいつでもどこでも持ち歩いて読めるわけだが、そんな中でわざわざ図書館に行って本を読むというのは、図書館という場所に何かパワーのようなものがあるのだろう。

例えば神社やお寺を例にとると、それらの場所に行くのは、お参りや先祖供養という目的や意味合いがある。

しかしいざその場所に赴くと、そこで何か他とは違う雰囲気を感じるはずである。それは例えば図書館であれば集中できそうな雰囲気であったり、市場であれば活気がある雰囲気であったり(雰囲気ではなくもちろん本当に活気がある)、神社やお寺であれば、荘厳な雰囲気というようにさまざまなである。それはその場に居合わせる人々が共通の目的を持ってその場に来ているからなのかもしれない。

また現代ではなんでも自宅で事足りる時代だが、例えば銭湯というものは、何か公共のスペースで他人とコミュニケーションの場でもある。自宅にはない思いがけないコミュニケーションや会話が生まれる場なのではないだろうか。また例え直接のコミュニケーションがなくとも、その場に居合わせるということ自体、コミュニケーションが発生している。経済的な合理性から昨今ではなんでも個人の時代であるが、コミュニケーションということを考えた時に、何か場というものを再考してみるのもありなのではないか。

逆にこれからは経済的合理性だけでなくコミュニケーションが豊かになるような空間デザインや何か創意工夫というようなことが重要になってくるのではないかと思う。

そしてそのような普段とは違う場に赴くことによって、何か良いアイデアのようなものが生まれる、ということもしばしばある。それもある種の場の力だ。また思いがけない出会いもまた然りである。

そもそも図書館というものは、良く集中できたり、開放的な間取りであったり、くつろげる空間デザインであったり、そのような目的のために設計されているものだろう。そしてそのように工夫されているからこそ居心地が良いのだろう。例えばカフェであればBGMや照明など落ち着くデザインやくつろげる雰囲気を作っている。

そのような場の力を利用して、より勉強などに役立ててみるというのも一考の価値があるだろう。

大学を例にとると、大学というのは学生が集まってくる一つの場だ。そこでは学生と学生が交わることでコミュニケーションが生まれる。それだけではなく、大学というのは学生と学問との出会いの場でもある。内田樹、ウスビ・サコ著『君たちのための自由論 ゲリラ的な学びのすすめ』(中公新書ラクレ)の中で内田さんがおっしゃっていたのは、

「アカデミアとは本来、学生たちがふらふらできる場所でなければならないと思うんです。キャンパスをふらふらしているうちに、もののはずみで(by accident)「そんな学問がこの世に存在するとは知らなかった分野」に出会い、もののはずみで取る気のなかった科目を履修し、図らずも学ぶ気のなかったことを学んでしまった。そういうことが大学では実によく起こる。その偶然性がアカデミアの豊饒性と解放性を担保していたと思うんです。

ということだ。大学では学生と教員、学生だけでなく、学生は学問との出会いの場でもあるのだそうだ。

このように大学など、ある特定の場に行くことによってしか得られないものというのがあるのではないだろうか。特定の知識や情報というものはインターネットの登場でどこにいても享受できるようになり大変便利になった。しかし大学などは単に知識や情報を得るというだけの場所ではないのだろうと思う。

図書館の場合も同じだ。図書館や書店に足を運ぶのは、本と出会うためという方もいると思う。もちろん本を読んでいるとその中に他の著者の本が紹介されていたりするが、図書館や書店で、ふと何気なく手に取った本が自分の一番のお気に入りになるなんてこともある。このようにその場に赴くことによってしか、得られないものもこのインターネット時代において、たくさんあるのである。

場の力というものを、何か他に思い浮かべた時に、お風呂が思いつく。もちろん自宅なのだから、銭湯とは違い誰かとコミュニケーションが生まれるということはないわけだが、例えば、お風呂に入ってゆっくりしている時、アイデアが思いつくという経験は多くの方が体験したことがあるだろう。それはその特定の場に行く(入る)ことによってしか得られない体験(ここではリラックスしたということがいえる。)がそうさせたのだろう。

ーーーー場の力というと京都の「哲学の道」を思い出す。哲学者の西田幾多郎は、毎朝この道を歩いて思想に耽っていたそうだ。そのことから、毎日決まった道を歩くことや通勤することで、よいアイデアが湧くという逸話があるが、おそらくその人の毎日通い慣れている道を通ることで何かリラックスするのではないかと推測される。これも一種の場の力だろう。

ーーーー以前ネットで拝見した東洋経済ONLINEの記事『「地方の高校」にあえて進学する子供の心情ー島根・隠岐島前高学生にみる進化』では他県などから島の高校に入学(島留学)するという体験についても、ここでしか体験、また学べないことがあるということが価値になっている。

その場所でしかできない体験、その場でしか食べられないもの、その場でしか見られないもの、このようなものが持つ力を再考してみるのもよいと思う。

例えばUNIQLOは地方を訪れても、都会と同じようによいサービスを提供してくれる。これによって全国どこでもよい品質の洋服が購入できる。大変ありがたいサービスである。

他方その場でしか体験できないことや食すことにできないもの、名産品や観光地などはまた先述のUNIQLOとは異なる価値があるだろう。

このようにある特定の場に依存しないことによって価値があるものや、他方、その場自体に特別の価値があるものなどが現代のテクノロジーなどによってその長所がより生かされている。

話は戻るが、居心地のいい図書館などには、人が集まる。するとそこにコミュニティが生まれるが、そのようなコミュニティというものは、私たちには少なからず影響がある。例えば学校というところは、他者と交流することができる機会が多くあるが、そのようなことがひいては「面白い」、「楽しい」ということも言えるだろう。

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さて、コミュニケーション、それはすなわちコミュニティから生まれると言っても良いが、それではコミュニティというのは、どのような場合に作られる、またはできるものなのだろうか。
例えば腕のいい町医者の元へは、多くの患者が診てもらいたいと訪れる。すると診療所の待合室にコミュニティができたりする。また何か高尚な先生の元へは、教えを乞いたいと多くの学生が集まる。そんな時にもコミュニティは生まれる。

そのほかには、例えば図書館のように何か心地よいと思える場所には自ずと人が集まるだろう。
茂木健一郎著『生きがい』(新潮文庫)の中で紹介されている明治神宮外苑も豊かな緑や自然などで多くの都民の憩いの場となっている、ということが書かれていたが、このように何か心地よいというようなところにはコミュニティができるようだ。

コミュニティというものはすなわちコミュニケーションが生ずる集団という意味であるが、どうすればそのようなコミュニティを作ることができるか?=どうすればコミュニケーションが生まれる場を作ることができるか、ということについてはコミュニケーションが生まれやすい場を作る、もしくは整備すればよいのである。

成熟社会になって、個人主義のようなものが全面に出てきたように思うが、コミュニティというものを考えた時にそれは、そのような社会を楽しむための一つのアイデアということがいえるのではないだろうか。

昨今は家からコンビニで買い物をして帰ってくるのに会話はしなくても、事足りるが、何かそっけない感じもする。そんな世の中にあってコミュニティというのは何かそんな社会を楽しむための一つと捉えてみてはいかがだろうか?

そして、そのようなコミュニティには、少なからず場や空間というものが関係しているのではないか。そしてそのような集まりやすい場や空間というものが、コミュニティをサポートしているのである。

そのような人が憩えるような、コミュニケーションが生まれるような場や空間が今後大事になってくるし、そのような場があると良いなと私自身思いました。

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