君がいた夏(小説)

 俺は久しぶりに、この土を踏んだ。
 高校を卒業してすぐに、都内の大学に通うため上京した俺は、都会での輝かな日々に惹かれて、しばらく。古里のことを忘れていた。
 ……いや、厳密に言うと、思い出そうとしなかったと言った方が、正しいのかも知れない。
 両親とはそれほど仲が良くなく、食事中も一言も話さず、聞こえるのは凄惨な殺人事件や、突然の事故死や、未だ治療法の見つからない病気にかかった人が御逝去なされたとか。悲観に満ちた報道が、テレビから痛ましく伝えられるだけだった。だから家族は、ただ住む場所と食事、そして最低限の衣服を与えてくれる存在でしか無かった。
 そして学校でも、成績優秀であったが酷く運動音痴で、しかも陰キャ。いつも一人で、静かに過ごしていた。
 そんなこともあってか、都内の大学では成績優秀者に選ばれ、誰もが羨む大企業への就職を果たした。
 だけど、やっぱり。こんな上の下ほどの人生にも、伸び代があった。
 この伸び代さえ無ければ、両親とも疎遠になることは無かったし、高校でずっとボッチになることも無かったし、ここまでの大企業では無くとも、そこそこ良い企業に就職して、クビにされることもなかっただろう。
 そうだ。
 もう、分かっているよね?
 君のことだよ。
 俺は一生、いや。何百年、何千年。いや、何億年経とうと、君を恨み続けるだろう。
 「大っ嫌いだ」

 君と初めて出会ったのは、確か、小学4年生。と言っても、若輩の俺はバレーボールをして必死に汗をかいている君を見ただけのことを、初めて放たれたピンク色の矢の衝撃で、一方的に一目惚れしただけのことを出会いって言ってしまっているだけなのだけれど。
 青い空に羽ばたく天使の羽のような肌、花を求めて彷徨う蜂のように俊敏にボールを刺す手腕、そして瑠璃色に輝く給水後の彼女の唇。
 ただ熱が籠もるだけの心が、ひたすらに熱されるだけの日々だった。
 ある日。俺は学校の裏山で、虫取りをしていた。偶然見つけたオオクワガタを追いかけていたら、いつの間にか迷子になっていた。
 そしてしばらく歩いていると、藪の方からガサゴソと物音が聞こえた。その藪に目をやった瞬間、何かが藪から飛び出した。「人……なの?」
 驚いた弾みで口から漏れ出たその掠れた声は、飛び出した主には届いたようで、間髪入れずに「うん!」という元気な女の子の声が聞こえた。
 木陰のせいでシルエットしか見えない彼女は、背丈や体格からして大体俺と同じくらいの年齢のようだった。
 彼女がこちらに近付いてくると、日が彼女の元へ差し込み、その全貌が見えた。
 いつもバレーボールをして、汗水垂らして、ただひたすらに。ただひたすらに、俺の憧れた、彼女だった。
 「ねえ、確か君。同じクラスだよね。こんなところで、何してるの?」
 「ぼ、僕は……く」
 「く?」
 「く、クワガタを探してここまで来ました」
 「そうなの。でも、あいにくここはお爺ちゃんの敷地なの。そこ、看板立ってるでしょう?」
 彼女の指さす方、すぐ後ろを見ると、確かに何かが書かれた看板があった。
 「私有地につき、立ち入り禁止……?」
 「へぇ~。あの看板読めるんだ。だけどもう遅いよ、他人の敷地に入ったら、警察に連れて行かれるんだ」
 「そ、そんな……」
 この時の俺は、酷く怯えていたことを今でも覚えている。そんな俺を見てか、彼女は少しはにかみながら、このように続けた。
 「でも、私が何とかしてあげるから。私と一緒にお爺ちゃんに謝りに行こう?」
 「……え?」
 俺の戸惑いを置き去りにして、彼女は俺の腕を引っ張って、何処かへ連れて行った。
 少しすると、木造の大きな家が見えてきた。その家の周りには大きな庭園が広がっていて、レタスやトマト、キュウリ、ナス。そしてビワとパパイヤまでも植えられていた。

 彼女は俺をナスが育ててあるビニールハウスまで案内すると、大きな声で叫んだ。
 「お爺ちゃん!いる~?」
 耳を劈くような叫び声が辺りに響いた後、「ほにゃ?」とご年配の男性が苗の間から顔を出した。
 「ほら、そんなとこ突っ立ってないで前に出なさいよ」 
 彼女が俺の肩を掴んで引っ張る。強張った俺は、「え、えっ」とひたすら戸惑うだけだった。そして遂に、彼女の前に出たときに。
 「ごめ」
 「友達を連れてきたの!」 
 「……え?」
 観念して謝罪の弁を述べようとした瞬間、彼女がそれに被せて俺が彼女の友達だと言い放った。
 「ほうかほうか。そじゃ、1つどうざい?」 
 「……え?」 
 「ナスを1つ食べさせてあげるって言ってるの」
 彼女はそう解説しながら、ナスを苗から1つ取った。
 「それとも、ナスは嫌い?」
 ああ。勿論大っ嫌いだ。あんなの絶対に食べたくない。……でも、どうやら断れる雰囲気でも無さそうだ。
 俺は観念して、目の前までやられたナスを、彼女の手も丸ごと食べんかの勢いで頬張った。
 「……美味い」
 「でしょ!」
 なんだ、なんなんだ。このフルーティーで、瑞々しい味は。
 「無理矢理でも食べさせて良かった。君、給食の時いつもナスを残していたでしょ」 
 「え、なんでそれを……」
 咄嗟に出たその問いは、瞬く間に彼女の頬を赤らめさせた。あれから数十年経った今でも、この時の自分を殴ってやりたくなる。
 「ワシャのナスは格別じゃね、苦手克服するヤツ多しゃんか」

 この祖父の助け船さえも、この時の俺は何も感じなかった。
 正に大波乱であった日曜日の夜。俺は夢を見ていた。四歳くらいか、まだとても幼かった頃。俺の隣には、ある女の子が、ずっと座っていた。何か禍禍しい壁のようなものが邪魔をしてその女の子が誰なのか、知る由も無かった。
 だけど、その女の子は、俺にとって。とても。とてつもなく。大切な存在なのだと、何故か確信することが出来た。

 彼女にひたすら時間を潰された日曜日が終わり、新たな一週間が始まる。月曜日。
 この日は、これまでとは全く違う様相を呈していた。それは、彼女が常に隣にいたことだった。
 「おはよう!」
 彼女は遅刻ギリギリで教室に駆け込むや否や、すぐに俺の座席まで駆け寄り、大声をあげた。
 「お、おはよう」
 戸惑いながらもやっとの思いで発声すると、彼女は何もなかったかのように自分の座席へ向かい、一限目の授業の準備を始めた。
 やがて、苦悩の鐘が鳴った。授業の始まりだ。一限目は算数の授業。生まれつき頭の良かった俺からしたら、これくらい楽勝だったが、どうやら彼女はそうではないようだ。頭を痛め付けるかの如く掻き毟り、むしゃくしゃしているようだった。そして授業が終わると、案の定。彼女は俺の席まで駆け寄ってきた。
 「ねえ、さっきの授業教えてよ。君、確か頭良かったよね」
 「え、さっきのを教えろって……。それに僕、そんなに頭良くないから……」
 「すべこべ言わずに!教えて!」
 当時ほんの根気さえも無かった俺は、押し問答するまでもなく、大人しく一限目の授業で習った内容を出来る限り教えようとした。しかし十分足らずの休み時間で教えられることには限りがあり、彼女だけの特別講習は昼休みまでの休み時間をごっそり持って行かれるに至った。
 そして五限目、地獄の時間が始まる。体育の授業だ。いつものように一人木陰で休んでいようとスッと姿を消そうとすると、唐突に彼女が声を掛けてきた。
 「今度は私が教えてあげる!」
 「……え?」
  戸惑う俺を余所に、彼女はどんどん話を進めていった。
 「ねえ先生!良いでしょ?彼に運動の楽しさを教えてあげたいの!」
 「そうだね。君はいつも体育の時間だけは楽しそうにしてくれているから、彼にもその楽しさが伝わるかもね」
 「うん!……てだけは余計だってば!」
 先生はニコニコ笑いながら、二人一組のグループを作るように促した。
 「皆さん、体育とはなんですか!」
 先生の問いに、クラスのみんなが一斉に答える。
 「楽しむこと!」
 「運動すること!」
 「遊ぶこと!」
 確か、この時聞こえたのは主にこの三つだった気がする。
 「そうですね!みんなで運動して、楽しむことです!ですが楽しむには、まず正しい運動をすることが大切です。そこで今回は、みんなの運動の仕方をお友達と教え合って貰おうと思います!まずは歩き方から!」
 みんなが「はーい!」と元気よく返事すると、「それでは、はじめ!」という先生の号令と共に、一種の修行が始まった。先生は他の児童のカバーに回っているようだ。つまりは……。
 「それじゃ、始めは私が教える番ね。君はなんで体育が嫌いなの?」
 「いやいや、急に何だよ、君が教える番って」
 「それじゃ君が何か教えてくれるの?」
 「ん、んん……」
 「ほら、何も教えられないじゃない。体育の何が嫌いなの?」
 この時はほんの少しの根気を見せたものの、すぐに押し返されてしまった。俺はなすすべも無く、正直に話した。
 「疲れるから嫌いなの」
 「そう、疲れるから嫌いなのね。……そういえばさっき、先生は歩き方からって言ったわよね。ということは走り方とか、スキップとかも同じように教えられるようにしないいと」
 「ねえ、歩くのって難しいの?」
 「普通に歩くだけなら誰でも出来るけど、出来るだけ疲れない歩き方となるととても難しいの。それに先生のあの言い方だと、走ることも同じように出来なきゃダメみたいだから」 
 「そんなに難しいんだ」
 辺りに一時の沈黙が訪れ、しばらく経ったころ。彼女は何を思い立ったか、「膝を曲げて」と言いながら膝の上の方に手を載せてきた。小さくて、綺麗で、温かい彼女の手を。
 「歩くときって、いつも何処まで膝を上げているの?」
 「……え?」
 「だから。普段歩くときはいつも何処まで膝を上げているの?」
 「あ、ああ。大体ここまでかな」
 「はぁ。そりゃ疲れるに決まってるわ。無駄に足を上げすぎなのよ」
 「そうなの?」 
 「そうなの。足をここまで上げるということは、それだけ多くのエネルギーを消費する。それも一歩一歩、前に進む度に」
 「それなら、何処までがいいの?」
 「そうね、大体この辺りまでかしらね!」 
 彼女は語尾を突き上げるのと同時に、強引に俺の膝を下げようとした。
 「イッテー!!!!」
 「……大体、この辺りね」 
 気が付くと俺の膝は、先程より少し下の方に位置していた。
 「毎回ここまで上げて、どうやって歩くの?」 
 「あとは一緒よ。上げた足を体重と一緒に前に突き出して、地面に添える。そして今度は逆の足……という風にそれを繰り返して前に進むの」 
 「……そうなんだ。でもこれだと前に進む早さが遅くなっちゃう」
 「それは簡単よ。一歩を少しだけ大きくすれば良いの。足の突き出しを少し前に、大きくすればいいの。分かった?」
 「うん……。あ、ホントだ!」
 これまでよりもずっと楽に、そしてこれまでに劣らない早さで、歩けている。
 「ありがとう!」
 「いえいえ、勉強を教えてくれたお礼よ。ありがとう!」

 「……てなんで放課後もなんだ?」
 体育の時間丸ごと使ってただひたすらに歩き方を見直したその日の放課後、彼女に呼び出されて今度は走り方を教わることになっていた。
 「そりゃ十分休憩だけじゃなくて、昼休みも使って算数を教えてくれたんだから。これくらいはしないとね」
 「……それで走り方を教えてくれるんだっけ?」
 「そうね。もっとも、歩き方をあれだけマスターしたら走るのも案外簡単かもだけど」
 「そうなのか?」
 「そうよ。なんせ歩く動作を早くしてかつ抑揚を付けるだけだからね」
 「……それならわざわざ放課後にせずとも、次の体育の時間でいいんじゃないか?」 
 「そうはいかないわよ。善は急げって言うでしょ?分かったら追いかけっこよ!逃げる私をタッチしたらすぐに帰っていいから」
 「……え?」
 そもそもこれが俺にとって善とも限らないし、それに追いかけっこ?
 この時の俺は、彼女のテンポについていけずに、少し休みすぎていた。そんなことを考えているうちに、もう結構な距離を離されていたのだ。
 俺は無我夢中で追いかけた。
 校門を抜け、坂道を駆け下り、交差点を右折し、子供の足ではとても長いストレートを抜けて、気付いたら森に入っていて、それでもまだ逃げる彼女を追いかけて、必死に追いかけて、追いかけて。彼女はやっと。足を止めた。
 少ししてから追いついて、彼女の様子を伺うと、彼女は呆然と、そこに突っ立っていた。彼女の肩に軽く触れると、彼女は止まっていた時間が今動き出したかのように、「え」と小声を漏らしながら、こちらを向いた。
 「き、君の割にはよく頑張ったね。……だけど、ご褒美はあげられそうにないや」
 額から流れる大量の汗、全身を覆い付けしているかのような鳥肌。
 鈍感ながらも彼女の豹変ぶりに驚愕した俺は、「あ、ああ。また明日、学校でな」と言い残して、その場を後にした。

  「あ、ああ。また明日、学校でな」
 あれは、幻だったのか。それとも、現実だったのか。彼女は確かに、この世界に存在したのか。あの日を境に、俺の前に電光石火の如く現れた彼女は、いなくなっていた。
 彼女と最後に顔を合わせたその翌日の夜。俺の母は、奇妙なことを聞いてきた。彼女が今も元気にしているのかを、聞いてきたのだ。
 俺はとっさにあの時の彼女の震える姿を想起し、「分からない」と答えた。この時の俺は、彼女と母。そして自分自身との関係を、まだ思い出せずにいたんだ。
 彼女が学校を休むようになって、そろそろ2カ月が過ぎようとしていた頃。
 彼女はまた、突如として俺の目の前に現れた。
 「こ、こんばん……は……。ひさし……ぶり…………だね」
 放課後に居残って勉強して、これから帰ろうと校門を出た俺に話しかけてきたのは、患者服姿の、今にも何処かへ行ってしまいそうなほどに憔悴した、紛れもない彼女だった。
 「あ、ああ。それよりも、君。大丈夫なの?物凄くしんどそうだけど」
 「え、ええ……。ちょとしんどい…………かな。でも、最期に君の顔が見た……」
 言いかけの彼女は、突如アスファルトに倒れ込んだ。その様子を偶然見ていた担任の先生がすぐに救急車を呼んで、彼女は元々入院していた病院に移送された。これが彼女の生前の、最期の姿だった。
 その一週間後、彼女の葬儀が執り行われた。今にも燃え尽きそうな炎は、思わぬねばりを見せて。なんとしてでもこの世にあらんとしたが、それもやむなく。彼女が俺のところに会いに来たその六日後。彼女は息を引き取った。

 これらはその後、母から伝え聞いた話だ。まず、俺と彼女が初めて出会った時の話から。
 少なくとも俺は、小学四年生のあの日、初めて君を。君という存在を発見して、恋をした。それが彼女との出会いだと思っていた。
 しかし俺と彼女は、それ以前に会っていたのだ。小学校の入学前、保育園で。
 入園した当初は友達もおらず、いつも一人で遊んでいた。その様子を見かねた先生が他学級から連れてきたのが、彼女だったのだと言う。彼女も友達が出来ずに、いつも一人で過ごしていたのだそうだ。
 その後しばらく、ずっと隣にいるだけの奇妙な関係が続いたが、先生方の目に触れるうちに、いつの間にか打ち解け。唯一無二の友達同士となっていたのだそう。
 そしてしばらくして。この時、初めての感情に胸ときめかせている自分がいるのに気付いた。彼女のこと、いつの間にか好いていたのだ。
 小学四年生のあの日。友人と呼べる存在がおらず、ただ一人で、ただ孤独で。ただただ勉強するだけの日々を射抜いて、破壊したあのピンク色の矢は。なんと二本目だったのだ。
 しかしこの幸せな日々は、いつまでも続くことは無かった。その後少しして、彼女が重大な病に罹患していることが判明した。小児ガンだ。
 突如として彼女は、一時的に俺の目の前から離れて、俺自身もその記憶の断片を心の奥深くに仕舞い込んでいた。
 しかし彼女は奇跡的な回復を見せて、小学四年生の夏。再び俺の目の前に現れ、ピンク色の矢で俺を射抜いた。
 そして歩き方と走り方を教わったあの日、彼女の体の中で渦巻く危機が明らかになった。白血病だ。
 彼女はその直後、すぐさま病院へ入院したが、病状は悪化。
 末期療法のため病院の庭で散歩する許可を取り付けた彼女は、担当医の隙を突き逃走。俺の目の前に、再び現れた。その直後彼女の容態は急激に悪化、そして彼女は。夏の終わりと共に、この世を去った。
 その後これほど大事なことを母から伝えられなかった俺は、人間不信となり、友を作ることを忘れ、誰かと協力することが出来ずに。今に至る。
 古びた校門を乗り越えて、小学生の時に偶然聞こえてきた学校の怪談話を思い出して、鍵の壊れた窓から校舎内へ侵入して。四階まで登って、彼女と同じ、小学四年生の時の教室に入って。
 天井に結び目を付けて輪っかを作ったロープを垂れさせて、その下に背もたれ付きの椅子を置いて。準備は完了した。
 君は二度、俺の……僕の。全てを奪い去って、散った。だからこそ俺も、君の元へ向かう。
 そういえば、此処に来るまでの新幹線でうっかり寝てしまい、夢を見ていた。
 保育園時代、彼女と新婚さんという設定でおままごとをしていた、遠い遠い記憶だ。
 「ガチャッ」
 「あら、お帰りなさい!」
 「ただいま。ご飯出来てるかな?」
 「出来てますよ!あなた本当に食いしん坊ね。今日はあなたの大好きなカレーライスよ!」
 「おお、そうか。ありがとう。とても嬉しいよ」
 「さ、早く食べましょう。出来たてが冷めてしまいますよ」
 「そうだな。……ちょっと待ってくれないか?」
 「なーに?あなた」
 「大好きだよ」

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