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中学生を飼い続けたい。

おもひでぽろぽろの主人公は、27歳らしい。東京で働くOL、今のわたしと同い年。おかしいな、もっと大人に見えてたのにな。
今日は成人式。大人とはなんだろうね。

わたしは13歳くらいから今を過去にして懐かしがるクセのある子どもで、大人になった時に今の時間を懐かしむのかな、といつも思っていた。
例えば運動会の練習。例えば、梅雨の日の授業中に雨の降るグラウンドを見ている瞬間。部活の帰り道、なんでもない会話をしながら好きな人の姿を見つけてドキドキしながら帰る通学路。こんな時間を10年20年後思い出して、あの頃は楽しかったなと物思いにふけるのかな、もしかして今の私の時間は人生で一番輝かしくてかけがえのない時間じゃないのかな、と本当に毎日思ってはもんもんとしていた。思春期を描いたいろんな漫画や小説を見ては、「やっぱり今の私の時間がかけがえのないものなんだ!大人になったらなくなってしまうものなんだ!」と思っては、かといってどうしようもない、ただ過ぎていくだけの日々に歯がゆさを感じていた。
もう二度とない時間を送っているのに、わたしはなにも残せない。それが悔しかった中学生だった。

岩井俊二監督の映画が大好きだ。中学2年生のときに出会い、見漁った。
熱で学校を休んだ日に借りてきたラブレターを見たときは嗚咽が止まらないほど泣いた。
そのときに見たインタビューで、岩井俊二は頭の中に14歳を飼っていると言っていた。その言葉はなにかを残したくて堪らないわたしにとって神様のような言葉だった。14歳を残したまま大人になることができる。そして作品を世に出せていろんな人に当時の感覚を呼び覚ましてる。本当に、わたしにとって神様みたいな存在だった。「わたしも中学生を飼いたい」。

あの頃のわたしは深夜、家族が寝静まったあとパソコンに向かってとにかく言葉や文章を書いていた。
いまの自分の気持ちを残しながら大人になることが必要だった。そのための手段は、いまの自分の思いや気持ちを、タイムカプセルのように残しておくことだった。

18歳、22歳、24歳と歳を重ねるにつれて、思っていたよりも中学生を飼い続けることが容易いことではないと知る。
大人になんてなりたくない、と思っていた自分を保ちつつ、社会でやっていくなんては並大抵のことじゃなかった。周りにいるのは、大人。中学生のように単純で、まっすぐな生き物ではない。生き抜くためのいろんな術を手に入れている大人たちのなかで生きてかないといけない。でもわたしの本心では、思春期の気持ちを思い出せない人間になることは本当に嫌だった。処世術を身につけていく自分自身も嫌いになりそうだった。

中学生の純粋ゆえのヒリヒリとした感情や日々は、絶対にどんな人の中にも眠っていて、それを忘れたフリして日々を過ごすのが怖い、と思っていた。そんな大人にだけはなるまいと思っていた過去の自分に恥じないようにしないとと、社会人になってから上手くいかないことだらけの日々も自分に言い聞かせていた。

大人の定義というのは難しくて、年齢だけでは判断できないことばかりだと思う。
ある日誰かの言葉でみた、次の世代にバトンを渡したくなったら大人だと思う、という言葉がわたしは納得がいった。

15歳のわたしに、宝物のような言葉をかけてくれた人に去年、本当に奇跡のようなカタチで出会うことができた。
思春期の気持ちを代弁してくれるラジオ番組を作っていた大人の人で、当時わたしは毎日インターネットの掲示板に書き込んで日々の支えにしていた。中学生の日々は窒息しそうだ。
誰かに聞いてほしいのに、その誰かがいなくて苦しかった。そんななか、電話をくれたスタッフだった。彼女からもらった言葉をわたしはずっと大事に温めてきた。
そのご本人と出会えた時は本当に大泣きして同時に、ここまできてよかった、と思ったのだった。
「大人になる日まで中学生の自分を残しておくこと」。26歳まで、それを維持することで精一杯だった。
26歳から27歳になるときに、15歳の自分の支えを作った方々に出会って、バトンをもらったなと思わされたのだった。

15歳の気持ちを維持して大人になるのは難しいし苦しかった。手放したいし、長いものに巻かれるほうがうんと生きやすい。でももうやっと、大人のスタート地点に立てたと思える。
わたしは、過去のわたしみたいな子たちにバトンを渡すために走りたい。

これからのわたしは、毎日が苦しくて学校なんてちっとも楽しくなくて誰もわたしのことを理解してくれなくて、うわべだけで会話してる自分が大っ嫌いな過去のわたしみたいな子たちのために。

大人とはやっぱり、次の世代のために走れる人でありたい。

#成人式 #大人 #日記 #散文 #中学生


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