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『1階づくりはまちづくり』というタグラインの先にあるもの。

先日、MTRL KYOTO にて開催されたトークイベント(ゲスト:田中元子さん×榊原充大さん)に行ってきた。

イベントタイトルには書籍出版を記念して緊急開催という見出しがあったけど、その書籍『マイパブリックとグランドレベル』は、その夜、楽天でポチッと購入しておいたので、手元に届いてからゆっくりと読むことにする。

MTRL KYOTO はコワーキング・スペースでもあるので、ふらっと立ち寄ることもできるんだけど、僕の行動範囲に含まれておらず、利用することがほとんど無い。古い建物を改装したカッコイイ空間なので、憧れはあるのですが... さらに作業スペースや設備も整っているので、普段使いしたい施設だったりする。そんな場所では定期的にイベントが行われている。

会場に入ると、すぐに友人(大学の先輩)が目に入る。社会や暮らしに対して積極的に活動されている「株式会社応用芸術研究所」を運営されている片木さんだ。久しぶりにお会いしたこともあって近況報告しつつ同じテーブルについてイベントが始まった。

僕は、田中元子さんの詳細を知らず、ちょうど、ある物件のブラッシュアップに関わることもあって、タイムラインに飛び込んてきた「公共空間」のキーワードに反応してイベントに参加した。今回は書籍出版記念ということから、すでに読了して参加されている方もおられたようだったけど、イベント冒頭、登壇者の紹介を丁寧にしていただいたので理解が深まっていった。

田中元子さんは破天荒で可愛く素敵な女性という印象が一番残っている。トークの端々で話されていた内容は思わず声に出して笑ってしまった。そもそも街が好きで人が好きで「幸せ」に対しても、心理学者のアルフレッド・アドラーの三原則「自己容認・他者信頼・社会貢献」を自分の言葉・行動に置き換えて田中元子の三原則とされているようだ。

書籍『マイパブリックとグランドレベル』が届いた。

・書籍タイトル:『マイパブリックとグランドレベル』
・表紙コピー:『今日からはじめるまちづくり』(『今からはじめるまちづくり』も考えたけど、『今日』にしたとトークイベントにて)
・帯(表):『1階づくりはまちづくり』と大きくあって、『欲しい「公共」は自分でつくっちゃおう。もっと屋台!もっとベンチ!もっともっと、好きなことができる場所へ。あなたのためのまちづくり実践テキスト』
・帯(裏):『そもそも行政と市民の関係が成熟していない日本だからこそ、あればいいなと思う公共は、自分で勝手に作ればいいのだ。馬鹿げた考えに聞こえるかも知れない。ければ、私は自分で自家製公共づくりを実践して、行政がつくるそれより、自前でつくるもののほうがはるかに軽やかで柔軟で、そして今すぐにでもできるものであることを、思い切った(本文より)』

少し読み始めると僕と田中元子さんとの違いは何か気になっているのでちょっと書き出しておく。

僕の実家は宇治市で小さな商店を営んでいる。書籍でも紹介されていた「人物が小さなフレームで切り取られる」タバコ屋だ。商材はタバコ以外にいろいろあって、物心着いた時に他者と関わりを意識したのはその小さなフレーム越しのお客さんである。同じ町内でも親戚が商売を営んでおり、その店先で親戚の叔母さんや、来店されるお客さんと一緒に過ごす時間は僕にとっての日常生活であった気がする。

宇治市から京都市に引っ越してきたのは20歳になる少し前だった気がする。一人暮らしへの憧れもあって、通学時間とその交通費を比べて大学近くの安いアパートなら住めると算段して、三年生(三回生)からだと思うが京都市左京区一乗寺にあった「ときわ荘(四畳半のアパート)」に住み始めた。生活費や制作費(美術大学)を得るために飲食業や接客業でアルバイトをしていたんだけど、それ以来、僕のプライベート空間に他者が顔を出す機会が減っていった。

今の職種はいわゆる接客業ではないんだけど、フリーランスで自由な身ということもあって、クライアントが主催するパーティーでは受付をしていたり、つい先日も誂えられた場所ではあるが屋台形式の店舗で接客業をしていたんだけど、正直、心地良いのは事実である。

生活圏の違いからか、東京という「都会」における社会性や個人の在り方が見えてくる。京都(京都市)は路地や慣習など少し独特な雰囲気もある気がする。視点の違いはあるけど地方であっても都会であっても、ましてSNSだとしても人は誰かと触れ合い生きている。

残念ながら京都ではいわゆる「屋台」を見かけることはない。僕の知っている限りだと、小山田透の「屋台」、きむらとしろうじんじんの「野点」、Yottaの「金時」は、アートというアプローチから公の中にコミュニケーションを行う場を作っている。身近なところでは展示会のレセプションに合わせて会場の前に生ハムの原木を設置して、レセプションに訪れる人だけでなく、偶然通りかかった人にワインや生ハムをふるまっていたのは賑やかしが動機だったりする。(あとで怒られたのを知っているー)

トークイベントでも榊原充大さんが話されていたように京都の街中に流れる「鴨川」は意外に自由(花火とバーベキューがダメだったか...)な公の場だと思う。思い立ったことを行動してみても享受してくれている気がするけれど、僕が美術系(社会不適合者の集まりと揶揄されることもある)の大学を経て、自由や自己主張の機会が多く図々しい耐性が付いてしまっているのかも知れない。

僕の住まいは路地の奥にある住宅密集地にある。情緒のある長屋の体裁をしているわけでもなく、少しうす暗い裏町だったりする。そんな家の前には壁はなく1mほどセットバックした空間に桂や蝋梅の木を両側に、植木鉢には寄せ植えや睡蓮の鉢を配置している。落ち葉拾いや剪定などしていると、路地を行き交う近所の人と挨拶から他愛のない世間話に繋がったりしている。

ちょっと脱線しているようなので書籍の話に戻る。

田中元子さんの目的は屋台にあらず、その装置を通して得れるのは「幸福感」であって、その素直な意思がすべての礎にあるように思う。特に都会(東京)において、公共と呼ばれる空間や建物の多くは現実生活からズレたところにあって、それこそ血が通っていない虚構のモノが点在している。そのような環境で無意識に過ごすことは人にとって幸せなのか?と問いかけられているようだ。

当事者不在で社会課題から入る(起点)プロジェクトが多い中、個人の主観から社会を繋げていくスタイルをとっている。これまでの活動ある「けんちく体操」も同じ軸線上にあるんだろう。コンセプトや見た目のカッコ良さだけが先行するようなプロジェクトとは全く異なる。そして、一度繋がった社会と個人との関係は継続性を持っているようで、根本治療を施されている庭師のような気がした。


(さて、次はグランドレベルの章を読もうか。)


#MTRL #田中元子 #公共 #公共空間 #社会 #レビュー

僕のnoteは自分自身の備忘録としての側面が強いですが、もしも誰かの役にたって、そのアクションの一つとしてサポートがあるなら、ただただ感謝です。