[小説]青と黒のチーズイーター 7章 突破口はミナミ・ダンジョン 2話 矜持じゃ守れない

2話 矜持じゃ守れない

 ダニエラは人込みをかき分けて走る。ルシアの手をとり、道を開きながら先導した。
 その手が、がくんと下に引っ張られる。
 足がもつれたのか。ルシアが膝をついて肩を上下させていた。苦しい息の合間から謝ってくる。
「ごめん。いつもだったら、これぐらいでバテたり、しないん、だけど」
「走らせてるのはあたしだから、謝らないで。ケガしてない?」
 不規則な時間の仕事をしていても、ルシアはレッスンも体力づくりも欠かさない。蒸し暑いとはいえ、倒れそうなほどの無理をさせているのは自分だった。
「でも、逃げ出すなんてどうしたの? あたしも、あの刑事をそのまま信用したわけじゃないけど」
「一言ではいえないんだけど……」
「おねえちゃん、具合悪いん? 救急車、呼んできたろか?」
 中年女性が声をかけてきた。ビニール袋に直接いれたテイクアウトの屋台食をいくつも持っている。一日の仕事の疲労がしみついたシャツにサンダル履き。地区住民らしい。
「今夜からダイエットやめるから大丈夫。ありがとう」
 ルシアが立ち上がった。ダニエラも礼を言い、早々に女性から離れた。巻き込んでしまわないとも限らない。
 通りにある店も屋台も、飲食店はどこも盛況だった。椅子が足りずに立ったまま食べている者もいる。その頭の上の空間には看板が無遠慮に迫り出し、ゆとりといったものは欠片もみえない。
「騒がしくてゴチャゴチャしてるとこだけど、慣れちゃうと住み心地いいよね」
 笑みながら再び歩き出したルシアの気丈さに、もう少し甘える。
「あと少しだけ頑張って。畳屋町たたみやまちの西側にユースホテルがある。そこならすぐ休ませてくれるはずだから」
 劉会長から、援護してもらえる所をいくつか聞いていた。
 たかが〝幽霊〟と鼻で笑い、<モレリア・カルテル>のなかでは、まともに取り合う者がいなかった存在が、大きなバックアップになっていた。
 そして、ダニエラに協力してくるということは、干渉してこなかったこれまでのスタンスから変わったことを示していた。
 モレリアは、情報不足が致命傷になるかもしれない。相手の戦力を知らないまま勝てるのは、よほど優位にあるときだけだ。
「ホテルについたら、さっきの刑事から逃げた理由も、ちゃんと説明する」
「そっちはいいや」
「よくないよ。ルシアも関わってるんだから。納得できないことがあったら教えてほしい」
「だから、もういいんだよ。あたしの安全も関わってるから、ダニーは最良の方法を選んでくれたんでしょ?」
「もちろんだけど」
 ルシアがリュックを背負い直した。その動作で、やっと気づいた。
「……あ、ごめん!」
「なに、トイレ?」
「違うって」
 ダニエラは思わず苦笑する。すぐに表情をひきしめた。
「交代するよ」
 レンガみたいなバインダーファイルを持たせたままだった。余裕のなさが簡単な気遣いさえ忘れさせている。
 考えようによっては、ルシアが一緒にいるから余裕がなかった。危険な目に遭うのが自分だけなら、これほど焦ったりはしなかっただろう。
「ルシアのバッグ、持ってこれなかったね。全然気づけてなかった」
「そっちは気にしないで。また買えるものばっかだから。バインダーのほうはお願いするよ。さすがにちょっと疲れた」
 フロシキ・リュックを引き取ろうとしたところで、近づいてくる人の気配。先ほどの女性とは明らかに違った視線を感じる。
 ダニエラは、ルシアを背中につける位置で身構えた。
「ふらついてるけど、どうしたの?」
「酔っ払っった? 歩くのがつらそうだね」
 そろってシャツの第三ボタンまであけた四人連れが、無遠慮に近づいてくる。ルシアを見る目つきに下心が出ていた。
「休めるとこ知ってるよ? そこまで一緒に——」
「消えろ」
「なんだよ、ひとが親切に……」
 ようやくダニエラと目を合わせた四人が、そろって怯んだ。
 相手の数が圧倒的でも関係ない。凶暴がにじむ眼差しで、ダニエラは四人を射る。くすぶっていた苛立ちが怒りに変わっていた。
 女とみれば無遠慮にからみ、難癖をつけ、邪魔してくるやつらに。
 ルシアをこんな目に遭わせている自分に。
 モレリアでしか生きる方法がないと思い、モレリアに隷従してきた。そんななかで新しい可能性を考えさせくれたのはルシアだ。
 そして、危険を冒してでも新しくやり直すことに背中をおしてくれた。
 ルシアは自分の好きにしていると言う。それが本当でも、ここまでさせていいのかという迷いと不甲斐なさが、ずっとあった。
 出口を求めていた憤懣が、足を止めさせられた下心カルテットに向かう。しかし、握り込んだ拳をあげるまえに、ルシアの手に包み込まれた。
「時間がもったいない。早く『ホテル』にいこっ!」
「ホテル」を宿泊ではなく、それ以外の場所の意味でとったか。呆気にとられた四人連れを置き去りにして、今度はルシアが先導して歩き出した。
 歩きながらフロシキ・リュックを受け取ろうとした。ルシアの濡れた肌が、店舗の照明を受けて光る。
 汗が酷かった。
 ダニエラ自身も汗だくになっていた。犯罪集団の部品となって働いていたから、体力はもちろんストレスにも強い。それでも、このありさまだ。追われてることでのルシアの疲弊を思う焦燥がスキをうんだ。
「勝手するのもそこまでだ。じっとしてろ」
 ミスった。周囲への注意が足りていなかった。別の厭な汗がふきだし、リュックにのばしていた手を止める。
 相手を刺激しないよう、ダニエラはゆっくり振りむいた。
 同じく汗で額をぬらしたスガが、手が届きそうな距離にいた。
 警官として追ってきたのではない目がそこにある。


 いったんは捉えたスガの姿を見失ってしまった。けれど、まだ遠くにいっていないはず。
 クドーは、先行したリウと挟み込むために、路地へ折れようとしていた。
 二車線ほどの広さの通りは、ひしめく屋台や小型店舗の照明で、まばゆいほどの明るさがある。その通りの脇にぽっかりあいた横道へと……
マーシャマリア? やっぱりマーシャだ! ちょっ、無視していく気⁉︎ 地域経済に貢献してる店員が呼んでるのにほったらかしなの? そこの私服でいるお巡りさん‼︎」
 張りのある大声は、喧騒のなかでもよく通る。足を止めないわけにはいかなかった。
 シャシリク屋のグルジア(ジョージア)系店主が、店頭で焼いていた羊肉の串焼きシャシリクを高く掲げて振り回し、周囲の注目をあびていた。
「マーシャは制服着てないとミドルスクールの学生に見える——あ、ひょっとして今はオフだった?」
「ひとの名前大声で連呼せんとって制服着てないけど仕事中なんは首のバッチでわかるやろ今はしゃべってるヒマないから次また寄るしそれとアブナイから串ふりまわすのやめときや!」
 一気にまくしたてた。
 先を急ごうとすると、
「仕事中ならなおさら頼みたいウチの裏口の近くで男の暴力刑事が鉄砲つかって女を脅してるのなんとかしてまだいるかわかんないけど胸クソ悪くてたまんないよ!」
 負けずに一気に言い返された。
 クドーは神速で転回、店先に戻ってくるなり煙の中の首を突っ込み、前のめりになって訊いた。
「刑事? ほんまに?」
「ハーブとニンニクで焼いた肉のにおいに抗える人間はいないよね。今日は何本にする?」
「ボケに返してる余裕ないって! 明日の食事休憩、ここにくるから!」
「黒だか濃いグレーだかのシャツでバッジが目立ったから、警官には間違いない。バッジをかさにきて好き放題してるのみると腹立つわ」
 スガが着ていたシャツの色と似ている。そして、相手が女。
 携帯無線で相方を呼ぼうとして思い出した。
 ラミロに壊されたのだった。そしてリウも、これまたラミロ相手の立ち回りで、無線機を壊していた。
 今頃になって思い出すなんて、なんというド阿呆アホウ……。


 多くの人が行き交っている通りで、スガがハンドガンを抜いてきた。目立たせないように腰の位置にかまえ、ダニエラに銃口を向けてくる。
「手間をかけさせるな。黙ってついてこい」
 口調がすっかり変わっていた。
 本性が出たか。ダニエラは冷めた声で問い返した。
「保護じゃなくて、犯罪者が脅してるように見えるけど?」
「いっぱしの口を利くな。従わないのなら、撃つ」
「この人込みのなかで?」
「できないと思うか? ミナミならやりようがあるのは知ってるだろ」
 暴力事件の多いミナミでは、地元住民も対処に慣れていた。
 野次馬精神のまま群がるくせに、危険な一線をこえて近づくことはないし、逃げ足もはやい。巻き添えをつくりたくないダニエラにとっては、仕事がしやすい環境でもあった。
 しかし、追われる立場になると逆になる。スガが警告に一発撃てば、すぐ銃による制圧が可能なスペースが提供されるに違いなかった。
「……従う。撃つな」
 それからルシアの肩を抱きよせた。「大丈夫だから」
 落ち着かせるふうを装い、早口でささやいた。
「<桃李苑>に行って劉会長に渡して。そこが駄目なら——」
「黙れと言ったはずだ」
 肩をつかんで強引に振り向かされる。ハンドガンのグリップ銃把底でボディを打たれた。
 威嚇だからダメージはない。しかしダニエラは、大きくよろめいてみせた。周囲の注目を集めようと演技する。
 すぐに通行人たちが、何事かと集まってきた。
「警察です! 離れて」
 スガは金バッヂをかざして追い払おうとする。そのスキに、スガに遮られた続きを話した。
「劉会長に渡せななかったら、さっきのちっこい警官か、物騒な目元の警官に、分署の外で渡して。あたしと離れても、〝それ〟さえ渡せば安全になる」
 ダニエラは頼れる先をあげた。
 ほかの組織の人間でも、下っ端巡査でも、ルシアを助けてくれるのなら誰でもいい。モレリアが弱体化して追手がなくなれば、ルシアは自由でいられる。プライドなど取るに足りないことだった。
「ダニーが囮になってあたしを逃すって——」
 ルシアが反論の様子をみせたが、
「手荒なことは避けたい。高城さんが勝手な行動をとったら、こいつがどうなるか、わかるな?」
 野次馬を散らしたスガが、強硬手段でさえぎった。
 銃口を脇腹に感じた。
「わかってるから、ダニーから銃を離して!」
 ハンドガンごとスガを押さえ込み、その隙にルシアを逃そうかと思ったのだが……。
 おとなしくスガに従って歩きだした。
 一歩進むごとに、突破口が遠くなりそうで気がはやる。車に乗せられたら、逃げ出すのは、さらにむずかしい。
 ダニエラは、食道楽たちで賑わう通りに、さりげなく視線を走らせた。
 面識がなくても同類は見分けることができる。味方になる人間が追いついてこないか、期待を込めて。


 ダニエラ折場カルヴァーリョが、内部情報を持ち出した。
 これに対する<モレリア・カルテル>のボス、エンリケ・デルガド=ドゥアルテの反応は鈍かった。
 折場の地位は、下っ端ではないが幹部というわけでもない。中堅の折場が持っている程度の情報など、警察はまともにとりあわないという意見が、幹部のあいだで主流だった。
 スガは憂慮の声をあげた。危機感がなさすぎる。
 焚きつける道具として、隠し録りされたカセットテープの存在をつたえた。
 これにフレデリーコが賛同してきたのは意外だった。スガの見解にうなずいたのではなく、女をめぐる私怨と未練が関係してだと、あとから知って納得したが。
 さらに、兄に盲従するラミロがついてきた。
 連携して動くには不安を覚えるメンツだが、ひとりで追うよりはましだ。折場捕獲で手を組むことにした。
 ダニエラ折場を締め上げれば、あとはどうにかなる——。
 そうフレデリーコは考えているようだが、簡単にはいかない気がした。
 ダニエラと直接話をしたことはなかったが、マチズモの気風が強い組織のなかで、のしあがってきた能力がある。モレリアの非合法行為を立証できる勝算があるからこそ動いたと考えていた。
 <モレリア・カルテル>のために働くことに、もう躊躇はなかった。警官の矜持など、なんの役にも立たない。
 スガには、もっと大事なものがあった。
 それを守ることが、スガの行動の第一条件になっている。
 松井田のイスを奪うことは、意図しないサイドワークに引き込んだ報復以上に、さらなる金を得るための手段にかわった。モレリアが潰れてしまうと意味がないのだ。
 スガは、守りたいものを脅かす元凶を全力で潰しにかかる。


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