[小説]青と黒のチーズイーター 9章 本性 4話 弱い警官

4話 弱い刑事

 クドーの耳に、廊下のざわめきが入ってこなくなった。
 頭の中が先ほど聞いた言葉でいっぱいになる。聞かされた答えを繰り返した。
「スガさんが『サゲイト』?」
「その様子じゃ、『スガ』は通称名だってこと忘れてるな。まあ当の本人が、サゲイトって姓を忘れそうになるほど、スガに馴染んでいるんだが」
「本名……そっか、ワイルドヘアと放置ヒゲのときの!」
 初対面のときの自己紹介で聞かされたのは、「サゲイト」という本来の名だけだった。
 なにかの成り行きで顔合わせしたにすぎず、配属も違うから、普段は顔を合わせる機会がない。だからスガは通称名まで名乗らずにいた。
 クドーにしても新人期間特有の多忙さがあった。サゲイトという名前は、あっという間に記憶の奥底へと移動した。
 やがて私服組のバックアップに入るようになり、顔を合わせることも増えたのだが、「サゲイト」の髪は短く整えられ、ヒゲも剃り落とされていた。打って変わってすっきりした姿になり、周囲の誰もが「スガ」と呼んでいたから、クドーは新たな人物、スガ刑事として記憶してしまった——。
「ご自分から通称を使うようになったんですか?」
「アカデミーにいたときからだ。本来の綴りの『Suggate』から、スガと呼ぶやつがいて、そのうち周囲の者も使い始めた。覚えやすいならスガでいいと思って、おれも使うようになったんだよ。公的での初対面には、いちおう本名も名乗っておくんだが、サゲイドで覚える人間はまずいなかった」
「じゃあ、ダニエラが見たのは、やっぱりスガさんやった……?」
「おれが折場を見ていないのは本当だ。しかし『サゲイト』と聞いたのなら、おれが覚えていないだけなんだろうな。少なくとも捜査で動いていたなら『スガ』の名で聞いているはずだから」 
「非合法なことをしてるときには『サゲイト』……なんで本名を?」
 スガが、しばし考え込んだ。
「……なぜだろうな。警官としてやってきたこれまでは『スガ』の名とともにあったから、悪事をやる自分と分けたかったのかもしれない。
 自分でもよくわからないんだ。気がついたら『サゲイト』と名乗ってた。いま考えるとおかしなもんだな。悪徳警官のときだけ、本来の名に戻るんだから」
 開けっ放しの引き戸がノックされ、看護師が入ってきた。続いて入ってきた私服が退室をうながす。
 刑事に了承を返したリリエンタールが、点滴をはずしてもらっているスガに声をかけた。
「間違いを犯したぶんは、自分できっちり始末つけてきなはれ。けどこれは、警察組織が防げたかもしれんことやから、幹部階級わたしらへの課題でもあると思てます。あんまり自分を追い込んだらあきまへんえ」
 短時間のあいだに、よく見ているなとクドーは思う。
 案の定、スガはリリエンタールの言葉に首肯しなかった。リリエンタールが出ていってからも顔を上げようとしない。視線を落としたままで、ひとりごちた。
「パートナーとその子どもに、安心できる生活をさせてやりたかった。仲間の誰にも相談しないでいるうちに、ひとりで暴走して、警官人生を自分の手で打ち切ってしまった。
 短慮なくせに、ほかの人間の生活を支えるなんて、お笑い種でしかないな」
 抱え込みすぎるきらいがある。クドーはリリエンタールの言葉を補足するように問い返した。
「あたしらが手錠かけるんは、罰するためだけやないです。悪い事した自覚を持たして、立ち直る機会にしてもらうためや思てます。スガさんは違うちゃうと思います?」
 大きな瞳で射抜くように見る。
 スガが顔をあげ、おずおずと口を開いた。
「……違わない」
「せやったら、わかってはるんやないですか? 手錠はめられてるスガさんがせなあかんことは後悔ですか? 後悔だけで、家族やスガさんのこれからが良うなるんですか?
 気持ちの整理のための後悔ならともかく、ずっと否定したまんまやったら自己憐憫とおんなじです。そんな人の連絡係はしたないですよ。ご家族にどんな顔してうたらええか、わかりませんもん」
 家族のもとに行くのだから、機械的な事務連絡仕事にしたくなかった。
 不意にルシアとダニエラを思い出した。
 パートナーとのこれからを思って模索し、行動をおこした点では同じだ。
 違う結果になったのは、法に触れたといったことではなく、パートナーとの意思疎通の有無のような気がした。〝普通〟といわれる人たちと、なんら変わらなくて。
 もうひとつ思い出したのは、
「ルシアの隠れ家まで送ってもろたとき、『グチは持ったままでおると腐ってしまう。お互いさまで、ぶっちゃけあうのが一番』て言うたの、覚えてくれてはります?」
 ひと呼吸おいて、小さくうなずいてきた。
「悩み事を話して外に出さへんかったから腐らして——あ、言葉悪いですね……すいません」
「いや、いい。おれが弱いから、その通りになったんだ」
「深刻な悩みほど話す相手を選ばんとあかんから、スガさんが話せんかった気持ちもわかります。話せへん空気にしてた同僚あたしらも悪かったんです。
 話して外に出すには、話せる雰囲気もいる。
 せやから一概にスガさんばっかりが悪かったんでも、弱いせいでもなかったと思いますよ」
「そう思っていいのかな……」
 どこまでも朗らかな応えに、スガが微苦笑になった。
「おれはクドー巡査より歳も経験も上のはずなのに、なにやってるんだろうな」
「そんだけ気持ちが弱ってはったんでしょう。あと、歳とか関係なく達観してるようなやつはおりますし」
 クドーの胸の内に、いつも隣にいる相方が現れた。
 自分より年下だと知ったときはショックだったっけ。


 かつては死者や魔物が出るとされていた時刻も過ぎ。
 追われるような忙しさと、お祭りのような騒がしさに満ちていた病院にも、いっときの静けさが訪れていた。
 イスで寝落ちしている人もちらほらいる正面ロビーをクドーは先行して歩く。
 うしろをリウが渋々といった感じでついてきていた。
 手足の長い長身に、シャーマンが彫ったような呪術的タトゥー。リウの容姿は目を引きやすい。興味本位の視線を避けるために、裏口から出ようととしていた。
 注目されるのがイヤなら、タトゥーだけでも隠せばいいのだが、そういうことではないそうだ。
 泰然としたイメージを裏切って、こだわりもちゃんとあるところが可愛くもある。が、今これだけは譲れなかった。
「裏から出たらタクシーつかまらへんやん!」
 ミナミ分署まで歩いても十分程度の距離しかない。そのわずかな距離すら億劫なほど、クドーは疲れていた。そして残っている報告書が、さらに気持ちを疲弊させていた。
「こんな時間にタクシーなんてこないんじゃ……」
「正面出口が幹線道路に近いんやから——あ、行くで!」
 正面玄関のガラス越し、タクシーがすべりこんできたのが見えた。動力がたりない自動人形の足取りから一転、軽快な小走りになる。
 慌ただしく病院内に駆け込んでいった中年女性と入れ替わり、クドーはタクシーの窓にびたりと張り付いた。
 ぎょっとした初老の運転手に、ポリスバッチを見せて安心させる。
「びっくりさせなや、もう……千日前で幽霊乗した乗せたときより恐かったで」
「ごめん、ごめん。この車逃したら、もうつかまらへん思て……こらっ、どこいくねん」
 他人の顔で去ろうとしたリウをつかまえて乗車した。体力底なしでも、楽できるときには楽しておくべきだ。
 行き先を聞いたタクシーが走り出す。ほっとして背中をシートに預けた。
 少し硬いが広いシート、唸り声をあげない静かなクーラー。瞬きする間にまぶたが重くなる。草臥くたびれているようすのクドーを察した運転手が、話しかけてこないのもありがたかった。
 安眠を誘う、静かで薄暗い車内。眠りに引き込まれる前に、白い包帯が目にとまった。そのままリウの右手をじっと見る。
「ほんまに骨、折らせてしもたんやなあ。どこがまずかったんやろ……」
「違う」
 クドーの責任ではない。そう即座に答えられたが、
「かばっていらんで」
 忖度そんたくをはねつけた。
「悪いとこは、ちゃんと教えてほしい。怪我ですまへんようなこと、絶対おこしたないから」
「……ん」
「わかった」と言われたが、結局、話を進めることはできなかった。
 夜中でも、いつでも、年中灯りが消えない、古ぼけた建物のそばでタクシーが停まった。会話の終了を告げられる。ワンメーターですむ距離が、いまだけは残念だった。
 これからも組んでいたい。だから、どんな話でも聞いておきたかった。
 訊いても答えないことを無理くり聞き出したいわけではない。けれど、答えてくれないところにリウの弱さや、つらい部分があるかもしれなかった。
 滅多なことでリウは動じない。
 そんな相方につい忘れそうになってしまうが、リウも強いばかりではないのだ。

     *

 南方面分署に戻ったリリエンタール帆南ハンナは、副分署長室で客の出迎えをうけた。
「やっぱりこっちに帰ってきた。デスクで殉職した稀有な警官になる前に、少しは仕事を加減したら?」
 来客用ソファを陣取っていた秋本ソヒョン書賢に忠告される。
「よそ来てまで資料を読み込んでる秋本さんかて、他人のこと言われしまへんえ」
「わたしのは待ち時間の有効利用」
 膝の上に広げていた資料をダレスバッグに回収した。
「本部に戻ってこないつもりで、南方面分署の着任を受けたの?」
「藪から棒になんですのん」
「トップに上がって警察組織の環境改善、快適にしてやるんじゃなかったかって言ってるの」
「てっぺんに上がっても、足元がもろかったら意味ありませんやろ。土台に手ぇ入れとく必要があったんですわ」
「分署の手直しなら、他の誰かでもよかったはず」
「うぅん……どうでっしゃろな。ミナミ分署の補強となると、くだんの〝幽霊〟との駆け引きが必須になります。自分の身が食われるかもしれん相手と正面むいて話せる者、そない簡単に見つかるやろか。いうても、わたしやったらできるとも言い切れませんけど」
「せっかく積み上げてきたキャリアを失うかもしれないっていうのに……楽しんでない?」
「あら、バレとりましたか?」
 秋本がこれみよがしのため息をついた。
「帆奈の人生に口出しはできないけど……」
「秋本さんには本部できばってもろて、わたしが底から支える。これが効率的な方法かもしれまへん」
「わたしは帆奈と中央で……」
 言葉が途中から消えたが、リリエンタールにはその先が聞こえていた。
 秋本がついと立ち上がった。
「本部の口の悪い連中は、リリエンタールが飛ばされて勢いなくしてるとか言ってるけど、全然反対で安心した」
 片付いている気配が微塵もないリリエンタールの机の上を見て、
「呑みに誘いたいとこだけど、その様子じゃ、また今度だね」
「ええ、日を改めて」
 ダレスバックを手に副署長室から出ていく秋本についていく。
「見送りなんていらないから、さっさと片付けて早く帰りなさい」
「そない言わんと。わざわざ顔見に寄ってくれはったんやさかい」
「近くまで来たから、ついでよ」
「ついででも話しに来てくれはって嬉しいですわ」
 つっけんどんな秋本の台詞にもリリエンタールは笑みを返した。
 気がおけない秋本とのやりとりは、やはり楽しい。


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