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寺尾敏枝さんにレモンを捧ぐ

氷室冴子とその時代』では刊行済みの資料だけではなく、氷室さん関係者に独自取材を行い、証言を取り入れた。本の発売後、書籍刊行のご報告を済ませたが、そのなかで一人だけお礼を伝えられない方がいる。氷室冴子さんのご友人で取材直後に急逝された故・寺尾敏枝さんについて、今日は綴りたい。

寺尾敏枝さんは氷室さんのプライベートなご友人で、花組芝居を通じて親しくなったという。氷室さんとの出会いはおそらく90年代後半頃、着物や演劇など共通する趣味もあり意気投合したようだ。寺尾さんは藤花忌(氷室冴子を偲ぶ会)にもいつもいらっしゃったので、参加者にはおなじみの方であろう。自己紹介では氷室冴子の「墓守」と名乗っていた。

私は2015年から藤花忌に参加しているのでそれ以降は毎年寺尾さんと顔を合わせていたが、氷室さんとの思い出についてはこの場では聞きそびれていた。氷室本を出すにあたり、お話をうかがいたいと取材を申し込みご快諾いただいた。お会いしたのは2018年3月28日。プライベートな友人なので仕事の話はわからないとのことだったが、趣味を楽しむ氷室冴子のさまざまな姿を語っていただいた。この時に氷室さんの晩年の写真をはじめ、貴重な資料も譲っていただいた。そのなかの数枚は、『氷室冴子とその時代』第10章に掲載されている。闘病期の笑顔の氷室さんの写真を、ぜひファンに見ていただきたい。

この時ももっとお話をうかがいたかったが、調査を進めたうえで改めて6月の藤花忌で訊ねようと考え、そのままお別れした。そして忘れもしない5月4日。寺尾さんにご紹介いただいた演劇ライターの方から、5月3日に寺尾さんが亡くなったとメールが届いた。あまりの驚きで最初は理解できず、ひと月ほど前はお元気だったのに……と呆然とした。寺尾さんのことはこちらのブログに詳しい。寺尾さんの癌が判明したのは4月10日。ということは、私がお会いした時はまだご自身の体調のことはわかっていなかったのだ(そしてここに出てくる肺癌で亡くなった共通の友人というのは、氷室さんのことだろう)。ステージは高くなく、当初は手術をして復帰のはずが、急変してあっという間に寺尾さんは亡くなられてしまった。近くにいた人ほどその急変ぶりに呆然とし、途方に暮れるしかなった様子がうかがえる。

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翌月に開催された藤花忌は氷室冴子没後10年の節目の会。関係者の計らいで、会場には氷室さんの写真とともに、寺尾さん写真も飾られた(手前にあるのは氷室さんの遺品のキーボード)。墓守を任せた友人がこんなに早くこちら側へ来てしまい、きっと氷室さんも驚いているだろう。いや、むしろ話し相手が来たと喜んでいるだろうか。そう考えることで、このやるせなさを慰めるしかない。

今あるモノも場所も人も永遠ではない。だからタイミングを逃さないよう、後悔しないように動こう。常日頃からそう心掛けてはいるものの、改めてそのことを実感する出来事となった。ご本人も私もそんなつもりはなかったが、結果的に氷室さんのお話をうかがうことに間に合ったことに感謝したい。そして寺尾さんにとっても大切な友人だった氷室冴子について、語り継いでいかねばとも感じている。

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最後に、寺尾さんからいただいた写真のなかから、『氷室冴子とその時代』未掲載のもの、葬儀会場をスナップした写真を紹介しよう。第10章に記したように、氷室さんは生前からご自身の葬儀の準備を進めていき、『海がきこえる』をここで流していたのも氷室さんの指定だった。写真を見ると、献花台にひっそりと置かれたレモンが目を惹く。おそらく読者が捧げたのであろうこのレモンは、氷室冴子の傑作小説『恋する女たち』をオマージュしたものだ。小説のなかで、主人公の多佳子は黒いフォーマルドレスを着込み、レモンを片手に友人緑子の三回目(!)の葬式へ出かけていく。氷室冴子へのリスペクトと哀悼が込められたレモンは、葬儀写真のなかでもひときわ印象に残る一枚だった。

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