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永沢碧衣『山衣をほどく』、そして石田徹也。

永沢碧衣さんの『山衣をほどく』がVOCA賞大賞を受賞され、複数のメディアに取り上げられました。それを見た時に、パッと想起したものがあります。石田徹也です。

永沢さんご自身にその意図は全く無いと思いますし、これはリファレンスとか参照とかそういう読みとしてではなく、あくまでも作品『山衣をほどく』のみから、私個人がただ単純に連想したものです。
構図というのか、そこにあるものと一体化している状態が、そう連想させただけです (特に石田徹也『捜索』を。鉄道ジオラマの真ん中の山と一体化している絵) 。

永沢さんと石田徹也を単純に比較するという、無礼な無粋なことをするつもりは毛頭ないのだけれども、でも、パッと想起してしまったという、“私の真実” が現在ここにある以上、私にとっては確かなことなのです。

石田徹也の絵を見ていると、悲しくて悲しくて、そして愛おしくて愛おしくて、、、抱きしめたくなるのでした。
秋田にその絵が来た時も (『異界をひらく~百鬼夜行と現代アート』展、秋田県立美術館、2016) 、悲しくて愛おしくて、このまま盗んで帰りたいと思いました 笑。

ところで現代 (現在の) 美術というものは、作家にとってもキュレーターはじめ関わる人たちにとっても、とてもエネルギーを必要とするものだと思うし、そして鑑賞することにも、─もしも深く深く味わおうと意図すれば、それは極めて幸福なことではあるけれども、とてもとてもエネルギーを必要とすることでもあるのだと思います。

私はメンタルが強いほうではないので、

鑑賞者としての現代美術との交わりの中で、情けない話ですが時折カクンとメンタリティが落ちてしまう時があります。これには波があって、やがてまた復活していくのですけれども、エネルギーの補給がとても大切になるものだと感じています。というのはつまり、それほどに求めている、ということの現れでもあると、もしかして言えるでしょうか。

ある時、ガクーンと大きく落ちてしまって、
石田徹也が悲しくて悲しくて、
悲しいだけで、
見ることができなくなって、
本棚の作品集もとうとう売ってしまいました。

けれど、分かっていました。

石田徹也が悲しいのではなく、
私の心が悲しいのだと。
それを鏡映しに、石田徹也の中に自分の悲しみを見ているだけなのだと。

永沢さんの作品からつい想起して、久しぶりに石田徹也を、ホームページで見てみました。

ギャラリーページで、一つひとつじっくりと見てみました。
やっぱり悲しくして、
でもユーモラスでチャーミングで、
そしてやっぱり愛おしいと思いました。
販売していた『ダンゴムシの睡眠』の複製画が、ちょっと欲しいです 笑。

よく言われているような「現代人の生きづらさや悲しみ」のようなことを私は石田徹也にあまり見出していなくて、
もっと根源的な、と言いますか。
気がついたら自分がこの世に出生してしまっていた、そういう、根本的な戸惑いとして勝手に共感しているのですけれども。


永沢さんは、秋田公立美術大学アーツ&ルーツ専攻でフィールドワークの手法をも学び、卒業後も狩猟や漁業といった、人が生物の生を得て生きる、ということに真摯に向かい合いながら制作活動をされていらっしゃいます。
そういった背景もあって、生と肉体の循環、循環する大きな一つの共同体のようなテーマを受け取れる作品だと思いますが、

私はやっぱり、森と解け合いながら、虚ろに消えそうなあの熊の視線に、

気がついたら生まれていて、生きていたことへの戸惑い、そして何故か死んでいることへの戸惑い。
そのようなものを探そうとしています。
永沢さんの作品に石田徹也を見出して、想起してしまった “私の真実” としては、やっぱりそうするしかないのです。

アートというものは、

人を癒し、心地よくさせる価値があるけれども、その正反対にある価値にもなり得る、そういう可能性も、同時に孕んでいる。
常にギリギリの、時に危うい価値観のエッジではあるけれども、それが、その状況こそがアートの大切な醍醐味かもしれません。

私は作家になったことがないので、その心境は想像してみることしかできないのだけれども、
鑑賞者のほうは天の邪鬼で、自覚している以上に、その心は揺らいでいます。

喧嘩した。それだけで揺らぐし、流行病が襲ってきたなんてことになれば大揺れです。昨日まで良いと思っていたものを、簡単にひっくり返したりします。変わらないフリなどしても、心は揺れていたりします。

ですが、その鑑賞者の揺らぎが、作家を鍛え続けて、作家の動機を誘い続けているのかもしれません。

永沢さんは以前新聞取材を受けて、学生時代にお父様が入院された時に、ご自身の作品を見せた際の反応から、「絵が人を元気にできないこともあると思い知らされた」「他者のための絵を追求してきたけれど、それが自分のわがままだと気づいた」と話していらっしゃいました (2023年4月30日付、読売新聞秋田) 。

ある作品が、人の心を癒すのか、波立たせるのか。
作家も鑑賞者も、それがどちらであってくれるようにとお願いすることはできないけれども、

どちらであったとしても現代美術が素晴らしいのは、

これほど多様で強烈なエネルギーを放っていながら、その表現の自由と、もう一方の鑑賞者の自由とが、侵害されずに共存できることではないでしょうか。

鑑賞者の揺らぎを受け入れ、待っていてくれ、もしも鑑賞者がそっぽを向いても、時には手を離してもくれ (つまり自己の正義を絶対のものとせずに、他方の価値の可能性を否定せずに。) 、また手を伸ばされたら、いつでも手を握り返してくれる。

そんな絶妙なバランス感覚の、懐の深さ=自由ではないでしょうか。

そういう作家に、なっていっていただきたいなと思います。

永沢さんにも石田徹也さんにも全く面識がないにも関わらず、好き勝手に書いてしまいましたが、
その、永沢碧衣『山衣をほどく』は、永沢さんの母校、秋田公立美術大学10周年記念展『美大10年』にて、卒展作品『淵源回帰』との入れ替え展示で会期後半に登場します (ヘッダー画像は現在の展覧会の様子。奥にちょっとだけ写っているのが『淵源回帰』です) 。

今日も多くの鑑賞体験と出会いがありますように。

永沢碧衣 HP
石田徹也 HP
『美大10年』展 HP




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