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惜しみなく意識を乗せてくださいますように。

例えば茶道を思い浮かべてください。
なぜあのように細かな、ややこしい “作法” があるのでしょうか。
おもてなしの心くばり、道具を大切に扱うため……
或いは暇を持て余したお金持ちの道楽、見栄……
なのでしょうか。

古典的な型のようなものを習う時、大抵の場合、始めは何をしているのか理解できずつまらなく思うものです。そして大抵の場合、随分と後になってみて、不意に体感としての理解がやってくるのです。私にも、こういった習い事の類を全くやらなくなった今になって、ようやく少し腑に落ちるものがあります。それは知識や言葉での理解とは少し違うところにあるように思います。次のようなものです。

ひとつひとつの動作にあのような時間をかけた所作があるのは、客への気配りとも道具への気遣いとも言えますが、それらは究極的に何をしているのかというと、意識を乗せていく、ということです。

自らの動きの一つひとつに。
目の前の道具一つひとつに。
目に見えている全てに。聞こえる全て、五感に入ってくる全てに。
畳、花器、そこに活けられた草花、お湯、お湯から上がる湯気……。亭主が今ここで認識しうるすべての存在、その一つひとつを認識し、余すこと無く自らの意識を乗せている、ということの証しです。勿論お客という存在へも。そうして今ここに拡がっている、自分が認識しうる空間全体に、意識を乗せていくのです。

意識するということは、その存在を認めていることの証しです。嫌いではいけない、好きになれ、ということではなく (嫌いということも、相手を意識しているからこそできるのですし) 、嫌いなままでも、そのまま受け入れるということです。意識しないものは、たとえすぐ側にあったとしても気づくことができません。存在しないことと同じです。相手から意識されないとは、相手の世界に自分が存在できていないことと同じです。これほど悲しいことはありません。

受け入れることは自他の合一へと向かいます。それは究極の “赦し” なのです。そのようにして、ついには自分が認識しうるこの空間全体と合一し、全てが赦されるのです。空間全てが、私たちが実は求め続けている赦しに満ちるのです。

客は、そのようにして亭主が拡げた赦しの場に身を委ね、つまりこちらからも赦し、やがて亭主と客とが、空間全体と合一するのです。意識を乗せ合っている間中、その交歓は無限に起こり続け、私たちは身をたゆたえるのです。
そのような究極的な状態に向かうために相応しい動作を、先人たちが練りに練り上げてきたものが、今日まで残るいわゆる所作なのです。

茶道だけにとどまりません。華道、武道……同じことが言えます。同様に所作を発展させていったもの、例えばあらゆる祈りの儀式にも、それはあります。宗派、流派、関係ありません。向かう先はひとつです。形は違えど、誰もが求めているはずの “赦された場” へと開かれた扉なのです。

  “赦し” への入口には、このような特別な場所であったり、お金をかけて身につけなければ辿り着けないものでしょうか。そんなことはありません。
日常の動作の中に持ち込むことができます。禅僧や修道僧やヨガ修行者が動的瞑想をするようなイメージでも、たとえそのほんの何分の一かの気軽さででも、日常に持ち込むことは可能です。

例えば米を研ぐとき、米と水と自分の手とが混じり合っていく時に。
スニーカーの紐を順番に締めていって、足と靴とが次第に密着していく時に。
釣針に魚が食いついて竿を震わせた刹那、一気に竿を引き上げる時に。

向こうから来た人が手を振って、それに応えて手を振りかえす時に。

ダンサーが夢のように跳躍した瞬間、客席で思わず息をのんだ時に。
演奏家が最初の一音を出すためにスッと息を吸い、会場がピンと張りつめた時に。
ギャラリーのインスタレーションに身を委ねた時に。

持ち主のいなくなった空き家があっという間に朽ちていくように、人の意識が届かなくなった存在はあっという間に消え去ってしまいます。
どうかあなたの大切な存在に惜しみなく意識を注いでくださいますように。

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