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「音楽の素晴らしさを、あなたは見たのかもしれません。」

あるライブに行った時のことです。

私は、上手側の後ろの方に座っていました。
いつがったか、この辺りがいちばんピアノがよく聞こえるのだ、と誰かが言ったのを耳にして以来、馬鹿のひとつ覚えの様に私はいつもここに陣取るのでした。本当によく聞こえるかどうかはさておき、実際座ってみると落ち着く場所なのです。

やがてステージではアンコールの最後の曲が流れ始め、客席は最高にリラックスして、ゆったりと揺れていました。

その時、下手後ろの客席のドアが、そっと開いたのが視界に入りました。


入ってきたのは、やっと間に合ったお客さん、ではなく、コンサートの企画スタッフであるTさんでした。

Tさんとは、他のライブ会場や、過去に飛び入りで混ぜてもらった打ち上げで、何度かチラリとお目にかかっていました。
彼女の方では私を憶えていないはずですが、華やかに見えるステージの現場で、いつも淡々と裏方に回っていたTさんを、私は一方的にですが、遠巻きにとても好もしく思っていました。

そのTさんが、今、扉の前に立ち、ステージを真っ直ぐに見つめていました。

お客さんと一緒にゆったりと頭を揺らしてながら。
その間、1分……いえ、30秒ほどだったかもしれません。

そして、すぐにまた扉から外へ出て行きました。

たったそれだけのことなのですが、私はなぜか、目が離せなかったのです。
時間の感覚が無くなっていくような、不思議な光景でした。


ライブが終わり、私は私が見たものを、どうしてもミュージシャンに伝えたくなり、思いきってありのままに話してみたのです。私は何か美しいものを見たような気がする、と。

「Tが会場に入って聞いてるなんて珍しい、彼女はいつも仕事に徹してるから。」そのミュージシャンもやはり私と同じ印象を持っていたようでした。
それから、「実はね……」と続けました。

「実はね、彼女は昨日、お姉さんを亡くされたの。長く患っていて、50歳だった。……そういうことも一瞬忘れる音楽の素晴らしさ、みたいなものを、あなたは見たのかもしれません。」

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