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芋虫の“魂魄(こんぱく)”は躰の外に存在する。

アゲハチョウが、幼虫から蛹になるまでをご覧になったことがあるでしょうか。

蝶々が卵から孵って芋虫になり蛹になり、やがて蝶となる。この劇的な変化が彼らの身体に起きることは誰もが知っていることです。蛹から鮮やかな蝶が出てくる様ならば、実際に見ていなくても映像で見ている人はわりと多いのではないでしょうか。

しかし、その蛹となる前に、彼らに何が起きるのかを見る人は、多くはないかもしれません。

ある年の夏、家にあった山椒の木で、アゲハチョウがハタハタと寄っては離れ離れては寄り、飛んでいました。もしやと思い近づいてみると、蝶は私に構う事もなく、やはり卵を産み付けていました。彼らの営みをこうして始めから直接に見るのは、初めてでした。

アゲハチョウの卵はとても小さいのです。草の汁かと見紛うようなそれから小さい幼虫が孵って、合計5回の脱皮を経て蛹になります。始めのうち鳥の糞に擬態して茶色かった芋虫は、葉っぱを食べては休み、脱糞し、という事を毎日繰り返して、最後の脱皮で突如、あの見慣れた丸々とした青虫になります。その頃には鳥に見つかり蜘蛛に捕らえられてかなりの数が減りますが、それでもまた、食べて、休み、脱糞をひたすら繰り返すのですが、ある時、突然に彼らは動き出します。

その時、私は窓から山椒を見ていました。枝に一匹いるのが見えましたが、異変を感じました。遠目にも何かがおかしい。近づいてみました。

青虫は枝につかまり、体を左右にくねらせています。するとお尻から、水分がボタリと落ちました。そうやって体の中の水分を一滴残らず絞り出すように、何度も体をくねるのです。
その様は異様でした。今まで唯々毎日をやり過ごしている生きているようだった芋虫が、この時ははっきりと、別の意志を持った生き物のように変貌しました。
水分を出し切ると、今まで丸々としていた体は妙に平べったくなり、そして、一目散に木を降り始めたのです。

後で知ったのですが、蛹になると動けなくなるので、糞などの臭いから天敵に見つからないように、彼らは別の場所へ移動するのだそうです。
そんな習性を知らなかったとは言え、一心不乱にどこかを目指して進む芋虫は、まるで本人以外のどこか別の場所から、何かによって動いているようでした。
何か別の意志に突き動かされているようで、恐ろしささえ感じました。

「魂魄(こんぱく)で踊りなさい」。

芋虫の変わりように唖然とした後で、この言葉が思い出されました。舞踏家大野一雄の言葉だったように記憶しています。(もし違っていたら教えてください)
魂魄で踊る、とは、こういうことではないか。ふと、そう思い始めていました。

「魂魄」は魂、霊魂、そのような意味なので、こういう言い方をすると宗教的だったり、スピリチュアル的だったりに受け止めて嫌悪感のある人もいるでしょうけれど、霊性、インスピレーション、DNA、命 ……と言葉を拡げてみたらどうでしょうか。それでもダメだったとしても、人間はただ肉体だけを持って、人間として生きているのではない、という感覚を、どこかで感じてはいないでしょうか。

その何かを仮に “魂魄” と表現したとして、

私たちはその魂魄が、自分の内側にあって、自分でそれを大事にしたり握りしめたり動かしたりしていると思っているわけだけれども、もしかしたらそれは思い込みであって、そう思っているそれは自我であって、魂魄とは、もしかしたら自分の外にあるのではないでしょうか。


自分の外というか、外側いっぱいに魂魄というものは拡がっており、私にもあなたにも同じに拡がっており、絶えず私たちの中にやって来ている。この地球の生命というのは、ひたすらにそれをキャッチして、その通りに動いているだけなのではないか。それが自然体というものなのではないか。
ところが人間にはそれが一等難しい。自分だと思って握りしめているものが多すぎる。あらゆる修行や稽古は、何かを身に付ける事よりも、詰め込んできたあらゆるものを身から離すための、長い長い道のりなのかもしれない。


それをみんな離してみて、魂魄と一つになった時に、動くべき事、やるべき事は、自然と湧いてくるのではないでしょうか。
そんな時に、人間の本来からの個性が自然に現れて、それは生きる喜びそのものなのではないでしょうか。




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