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(続)リファレンスの意味。

(過去記事『リファレンスの意味。』の続き、といえば続きです。)


私たちは他人を完全に理解することはできません。
理解したように感じても、それは自分の理解の範疇に相手を当てはめているだけです。

自分の理解の範疇とは、自分の過去の経験と記憶によってできています。
たとえ兄弟姉妹や恋人同士でも、経験と記憶が全く同じ人などいません。
ですから自分の理解したいように相手を理解しているだけです。

どこまでいっても、そうです。

しかし自分と他人の中に、

“同じもの”

を発見することができます。

それは私の拙い言葉では書き表せませんが、

胸の中のひとつの “点” のような、あるいは “穴” のようなもので、

どんなに相容れない者同士であっても、この同じ “点” あるいは “穴” を相手にも発見した時、

私たちは歓喜します。

ただひとときの出会いでも、やがて喧嘩別れしたのだとしても、

この歓喜の “点” は変わらずに在り続け、

次の “点” へ、

また次の “点” へと、

起き続けます。

これまでも、これからも、
それは “縁起” として沸き起こり続けます。

それを技術、知術として、実践的に学び、
理屈、理論として、私たち人間の共通財産として体系的に積み上げる場所が、
大学という所なのではないでしょうか。

アートには何故リファレンスという技法が存在するのか──

その根本にあるものは、

“私とあなたに沸き起こる縁起” であり、

釈迦 (宗教というフレームに収まる以前の釈迦) の説くそれとなんら変わらないものであるように、私には思われます。

 “縁起” は、
目の前にいる生身の私とあなたを起点にして始まりますが、
それはやがて時空間を超えて無限に拡がっていきます。

それを鮮やかに目の前で展開して見せてくれるのが、

“アート” なのではないでしょうか。

西洋美術史の文脈に切り込むことや、
アート市場に切り込むことは、
後々に当てはめられた理屈であり、
装飾のようなものです。

その装飾を、

上質で、自分に勇気づけたり自信をくれるもの、として身に付けるのか、

チープなその場しのぎの見かけ、として身に付けるのか、

または、

全く脱ぎ捨ててしまうのか。

なのではないでしょうか。


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