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「偶然の物語」を楽しもう

6. 本を年間20冊以上読む

2024年にやりたい10のこと

今年の元旦に上記の目標を立てた。理由は、読書をする時間が年々減っていることに寂しさや焦燥感を感じていたことと、昨年からゲームシナリオ(テキスト)を読み始めたことで読書欲が戻ってきたからだ。

2024年も三分の一が経過し、これまで読了した本は7冊。いいペースだ。
しかし、ふと我にかえる。
「読書」とは、こんな風に目標を掲げて「頑張る」ことだっただろうか?
書籍の内容云々よりも、ただ冊数を稼ぐことに躍起になっていないだろうか?

📚📚📚

自分にとっての「読書」の本質を見失いかけていた矢先に一冊の本に出会った。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』である。

三宅氏の著作に触れるのはこれが初めてではない。昨年『推しやば』を読み「自分の言葉を生成して気持ちを綴る文章術」に感銘を受け、彼女の新刊情報を追っていた。

予約して購入した本なので発売日に手元に届いていたものの、読み終えたのは大型連休中のこと。あれほど発売を楽しみにしていたのに、およそ2週間「積読」になっていた。
なぜ働いていると本が読めなくなるのか。まさにこの状態が「答え」なのではと思ったが、そうではなかった。

これまでの読書歴を振り返り、これからの「読書」との向き合い方のヒントを得ることができた。


知らない「物語」に触れる快感

学校の図書館に通い詰め、とにかくいろんな本を読んだ。
小学生の頃は「青い鳥文庫」作品、中学生の頃は漫画原作のノベライズ、高校生では有川浩作品を読み漁っていた。
大学生になると時代小説も読むようになった。元々歴史は好きだったが、『図書館戦争シリーズ』にて「堂上篤」を演じた岡田准一くんにハマり、彼が出演する歴史映画の原作を読み漁り始めたことがきっかけである。

といった具合に、学生時代の読書ジャンルは専ら「小説」だった。
自分の意識を「物語」の世界に向けることで異なる人物や世界観に没入し、彼らの人生を追体験できる。それが楽しく、ストレスの捌け口になっていた。

「物語」は知らなくていい

絵に描いたような本の虫だった学生時代とは対照的に、社会人になると、読書をする頻度がめっきり減った。それどころかいつの間にか、読書に充てる時間すら惜しいと思うようになっていた。
本を読むくらいなら、YouTubeを観るかゲームをしたい。推しに触れる時間に充てたいー電子書籍を読むために購入したiPadは、難しいことを考えずに娯楽を消費するための媒体と化していた。

別に動画視聴やゲームそのものを否定するつもりはない。現に触れていて楽しい。読書からインターネットへー文化的娯楽を享受する媒体が変化しただけである。しかし、私はそこに一抹の寂しさを感じた。

あんなに本を読むことが好きだったのにどうしてー

ふっと本棚に並ぶ書籍に目を移す。
社会人になっても読書はしていた。しかし、メイクアップテクニックや人に伝えるための文章術、投資に関するものなど現実社会を賢くかつ効率的に生き抜いていくためのライフハックが目立つ。
その答えを、読書に「知識」ではなく「情報」を求めることで心が豊かになると思っていた。
しかし、小説しか読んでこなかった人間がビジネス書の雰囲気を受け入れられるはずもなく。それらは内容が頭に入らないままインテリアと化した。

だったら今までどおり小説を読めば良かったのでは?と思ったが、あの時すでに、私にとって読書は娯楽ではなくなっていた。
幼少期より熱中していた「物語」の世界は、「知らなくて良い些細な話」になっていた。

「物語」を楽しめる「人間」でありたい

三宅氏によると、インターネットで得られる「情報」が台頭した理由は、「ノイズなく、ほしい情報を得られたから」だという。

つまり読書して得る知識にはノイズー偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想しなかった展開や知識が登場する。
(中略)しかし、情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである。

ー三宅香帆(2024)『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 P.205より

私はこの文章を読んだ時、思わず顔をしかめた。
インターネットこそノイズだらけで自分にとって不要な、見たくない情報の温床だ。SNSなどその最たる例で、(こちらが気をつけていたとしても)辟易する情報に触れてしまうリスクを大いに孕んでいるではないか と。

私のこの問いに対し、三宅氏は肯定しながらも以下のように書き記した。

(前略)「推し」を仕事からの現実逃避のために推していても。
(中略)その気になれば、入り口は何であれ、今の自分にはノイズになってしまうようなー他者の文脈に触れることは、生きていればいくらでもある。大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。

ー三宅香帆(2024)『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 P.231-232より

そう。日常生活の中で他人の文脈に触れずして生きていくことは不可能なのだ。だからといってそれを遮断してはいけない。
うーん、難しい。
けれどだからこそ、「自分のことばで自分を守る」ことが重要なのだと再確認できた。

三宅氏は本書で、働きながら本を読むためには半身で生きることが大切と説き、結びとしていた。
半身になるー1つの事象にのめり込みすぎず(全身全霊を注ぐのではなく)、他人の文脈に触れるための心の余裕を持つということだ。

「自分はもっと頑張れるはずだ。頑張らねばならない。」
この考え方こそ、仕事に全霊を注ぎすぎてしまい、働いていると本が読めなくなる最大の原因だという。

仕事だけでなく私生活にも「効率」を求め、余計な知識は排除する。ひとつのことに全力で取り組むと、それ以外の複雑なことを考えずに済む。
なるほど、私は無意識のうちに「楽」をしようとしていたのか。

全身全霊で物事を成すことは「何も考えていない」に等しい。それに気づいたとき、自分が人間ではない気がしてゾッとした。これではいよいよ機械や人工知能と変わらないのではないか?

📚📚📚

壮大なところまで思考が飛躍してしまったが、本書を読み、健全な読書欲がむくむくと湧いてきた。
「他人の文脈」を受け止める、そんな心のゆとりを持とう。
「偶然の物語」を楽しめる「人間」になれるように。

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