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【短編日記小説】#1 壊れた樋


 ダンボールの上に砂をまぶしたような、柔らかな雨音。シューっと水を切る爽快な車の走行音。少し癖のある潮気を運ぶ涼やかな海風。それら地上の光景を映す、何処からともなく差し込む、人工的な街灯り。
 夜10時前。ほぼ毎日のようにあおるひとり酒を終え、大して酔ってもいないがシメの晩御飯に備えるべく、気休めの腹ごなしにと外の風にあたりに家を出たhは、その前方に、案山子のように突っ立っているようで実は動いている、黒々とした物陰に、若干の動揺を覚えるのだった。
 生来人嫌いで厭世主義にまで傾倒していた彼が、大仰にも行く道は行くしかないと腹を括り、何ら卑屈になる事なくその陰に近づいて行けたのは、酒の効力に因るものか。雨水に艶めく地を踏む足音も整然とした、静かな音楽を奏でていた。
 距離にして凡そ三四メートル。人が人の気配を真に感じ、僅かながらも心を動かしてしまうであろう他者との距離感、その間合いに足を踏み入れた時に、久しく耳にしなかった、見知らぬ相手からの挨拶が、hの進行を止めるのだった。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
 この「あ」という言葉をつけた事を自身わざとらしく感じ、隠せぬ照れ笑いを無理に奥歯で噛み殺そうとする、ぎこちないまでのhの所為は、幸いにして雨に因って掻き消された。それと較べれて、相手の男が浮かべる自然的な微笑には、実に堂々とした、屈託のない、晴やかな色が感じられる。この時、既にして自らを情けなく思うhではあったが、他者たる人間と相対している状況にて、一々内省を試みる事に憚られたhは、酒に因って多少なりとも大きくなった気持ちのままに男の直ぐ傍まで近寄っては、他意なき言葉を口にし、それを会話へと繋げて行く。
「夜分にまでお疲れ様です。しかしよう降る雨ですね。これでは織姫と彦星も会われへんでしょうね。せっかくの七夕も何にもなりませんね…」
「でも、これぐらいの雨やったら大丈夫なんちゃいます?」
 見知らぬ他人がいきなり口にしたこのような言に、気さくな受けごたえで接してくれた、工事現場のガードマン。夜闇やあんにあって年の頃はよく判らなかったが、雰囲気的にはおそらく五十代であろうか。背は少々低めながらも、その落ち着いた佇まいに様になった制服の着熟し、年の割りにといっては悪いが、均整のとれた顔立ち。博識とは言わないまでも何処か知的で聡明な風采。それを警備員ならではの鋭い眼光ではなく、寧ろ融通の利いた鷹揚な慧眼で、さり気なく体現している所に好感が持てる。自己顕示欲にだけは貪欲と思われる、昨今の日本社会とは隔絶されたような、余裕ある礼節も、年の功というよりは、その者が持する生得とも思われる。
 十、いや一回り程年下なhとしては、亦公私共に上下関係を重んじる彼の信条としては、そのガードマンたる男に頭が上がらない思いで、初対面でありながらも抱く敬服の念は、レインコートを纏ってまで、生真面目に仕事に従事する男の姿をして、更に増すばかりであった。
 
 彼方から雷鳴音が届いた。稲光いなびかりする空は確かめられなかったが、平然と頼りない雨を降らせ続ける天にもし、気象の変動を隠す意思があるのなら、自然にも天にさえも、人と同じような邪心が見え隠れするような気もしないではない。そのような児戯にも等しい私心を含む、hの心事しんじは、その思いを抱いた時点で罪業に値するものか。迷執めいしつの裡に手に取った煙草に強引にでも火をつけ、煙を上げるhの滑稽な姿に、冷笑を落とさないガードマンであった。
 二人が此処で語らう事既に一時間。他愛もない話ばかりとはいえ、身の上話にまで及んでしまったこの会話は、しみったれてはいようとも、それなりの意味があったようにも思われ、過ごした時間も無駄とは思えない。偶然のシンパシーに因って為されたこの時間は、稀に見る早さでhの心を、この空間を駆け抜ける。長い夜を引き裂かんばかりの力で。
 彼の酔いはとっくの昔に覚めていた。はっきりとした感覚で雨を受けるその身体は、朝露ほどの過少な汗を流していたが、それとは裏腹に心は全く濡れてはいなかった。
 元々汗かきで、酒を飲むだけでも、お菓子を食べるだけでも発汗を催すhの体質に相反する、心の渇きは、どのようにすれば瑞々しく艶めくのだろうか。計らずも生起される沈黙を一切気にせず、警備の仕事に邁進する男の表情が変わる事はない。充足とまでは至らなくも、彼の心は常に安らかな風を吹かせているのだろうか。
 汗の量を半端を捉えるhの焦燥は、ガードマンの平生に対する抗心でもあるかのような、一条の白濁した光を自身の内部に走らせ、それは或る直感的な思念を形成し、夢へと転化して行く。
 汗を抑えて、内なる心の泉を造りたい。
 夢を創るに欠かせない憧憬。それが如何に飛躍した稚拙な思いから来るものであっても、それなくして夢など語れようか。理だけに覆われた夢などは夢とも呼べない、売り物にもならない、虫や動物も喰わない、ゴミ同然の粗悪な品に過ぎず、持つ価値すら無い。
 そう思う彼の脳裏には見るも無残な、朽ち果てて久しい一本の軒樋が映されていた。おそらくは何十年もそのままの状態で、奇跡的に軒にしがみ付いていたであろう、憫察に足り得る年季の入った、色褪せた樋。手を触れるだけで血が出て来そうな、破れ尖った樋の先端は痛々しい限りだ。
 この梅雨にあって、瀑布の如き勢いで直接地面を打つ雨は、その後も地上に川を流し、行人の足を鈍らせる。
 だがそれは自然が持つ無限の力の表れでもあり、雨水を汗と、地面を身体を想定した場合、それ程までの大量の汗を掻いたのなら体内の水分は枯渇され、亦身体の表面である皮膚は、海を泳いだ程にふやけ、次に取り入れた水分はしっかりと心を充たし、それこそ瑞々しい光を放つようになるのではなかろうか。
 そうだ。それをするにはもっともっと汗を掻く事だ。それには運動は欠かせない。このような気休めの、冷やかしの雨に濡れているぐらいでは真の代謝は為されない。夢は果たせない。
 軽々しくもそう悟ったhは、ガードマンに別れを告げた後、家にも帰らずに、先程感じた時間の早さを武器に、西へ西へと歩き始めるのであった。






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