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【短編日記小説】#5 ウミガメとして

 昨日と同様ウォーキングに出かけたhは、あの年齢を感じさせない翁の姿を、須磨海岸に探していた。視点を遠くに置きながらも、直ぐ近くに居る者の存在も、抜かりなく確かめるような、狡猾な物色のし方で。
 それにしても暑い日が続く。間歇的にも起こる、眩暈にまでは及ばない、軽い立ち眩みが、まるで自力に依って創られたもののような気がする。これが長じれば、人は自らの意思で卒倒する事も出来るのではなかろうか。
 そんな莫迦な事を考えながらも、彼はまた海釣り公園にまで足を延ばし、其処で小休止とし、翁が現れるのを待っていたが、結局彼は現れなかった。然もあろう。あの時の翁の様子から察するに、彼もhと同様に、あくまでも気まぐれに散歩をしていたに過ぎない。どう見てもそれが日課のようには感じられなかった。逢着とは偶発的に生起されるから素晴らしいのだ。意図して起きたものに、そこまでの価値はない。
 いくら汗を掻いても子供の頃のように、水やジュースをがぶ飲みするに至らない、一応は大人たる体質や気質の働きに安堵したhは、このままとんぼ返りする事に憚られ、或る場所に寄り道をしようと画策するのだった。
 須磨駅から北東に上る事二三十分。三陽須磨寺駅から始まる商店街は、ちょっとした小京都的な漂いを慎ましく映し、店先に置かれた、深紅の緋毛氈ひもうせんが敷かれた、気さくな高貴を放つ、昔ながらの茶屋の長椅子は、その安らかな風情で行人の心を癒してくれる。
 須磨寺の手前付近にある霊泉で、甘露たる真水を口に含み、人家も建つ参道を進み、可愛らしい太鼓橋を渡っては仁王門を潜り、真なる参道に及ぶに連れて湧き上がる、淡くも濃い追想。これは自力ではない他力に依って生起された、必然的な回想でもあり、そこに甘んじて溺れようとするhの心境は些か乱れを生じていたかもしれない。
 高校生の時分にその人生で初めてデートをした彼の内心は、異性との間に起こり得る昂揚や清涼とは裏腹な、不安や緊張、息苦しさといった負の面を払拭しようと、この須磨寺を訪れたのだった。
 荘厳な神聖に包まれた寺の貫禄は、確かに彼の動揺を落ち着かせ、その足をしっかりと地につかせてくれた。
 だがそれは、あくまでも彼一人に対する力の授与であって、直ぐ隣に添って歩く、紗季という女性の心は、何色にも彩られてはいなかった。無色透明ならまだしも、おそらくは暗い色に染まりつつあったようにも思われる。
「なぁ、何でこんなとこに連れて来たん? ここで何するん?」
 正に紗季の内心の吐露か。いや、それ以上の感情の外化がいかか。
 寺社仏閣に関心あるhと、全く関心のない紗季との間にはこの時点で、海溝の深淵の如き軋轢が生じてしまったのだろうか。とはいっても、それだけを以て別れてしまった事実は何ともお粗末で、若気の至りがこの短絡的にして直情的な所為に因って具象化された事は、相手である紗季は言うに及ばず、h自身の心を掻き乱し、その憂愁たる懊悩は、永遠の疵となって、今も尚彼を苦しめるのだった…。
 
 家にたとえると三階建てくらいの高さのある、石段の中腹辺りから入られる宝物館にて、一連の源平合戦の内容が書き記された書物や人形等を見分して回り、平敦盛と熊谷直実の勇志漲る像に感銘を受けては、四国八十八所お砂踏み霊場にては、大雑把なお詣りをし、最期に本堂前にて両の手を合わせて無心に勤めていると、その本堂の中から、誦経の声が聞こえて来るのに、また若干の動揺を覚えるhだった。
 実家のお寺さんが真言宗で、仏教が好きでもあった彼にとっての、聞き覚えのあるその経文は、自ずと心を惹きつけるもので、その足は無意識にも動き出し、何時しか彼の身体は、本堂の中へと移されていた。
 何の手続きもとっていない彼が、右手にあった勝手口の戸を勝手に開けた時に感じた、不穏な空気感は、無論其処に坐る者達から浴びせられる、戦慄の白眼に因るもので、それを気にせぬ訳でもなかったが、吐いた唾は飲めぬ、行く道は行くしかないと、殊勝な顔つきと態度で、皆とは離れた場所に、独りポツンと腰をおろすh。
金剛手菩薩 摩訶薩
(きんこうしゅほさん ばかさ)
觀自在菩薩 摩訶薩
(くぁんしさいほさん ばかさ)
虚空藏菩薩 摩訶薩 
(きょこうそうほさん ばかさ)
金剛拳菩薩 摩訶薩
(こんこうけんほさん ばかさ)
文殊師利菩薩 摩訶薩
(ぶんじゅしりほさん ばかさ)
纔發心轉法輪菩薩 摩訶薩 
(さいはっしんてんぼうりんほさん ばかさ)
虚空庫菩薩 摩訶薩 
(きょこうこほさんばかさ)
摧一切魔菩薩 摩訶薩
(さいいっせいまほさんばかさ)
 理趣経の中で、一番好きだったこの部分が聴けただけでも、充分な満足が得られた。声量豊かな僧が謡う経文は聴覚を介して、五感の悉くに、水や風の優しい刺激を与え、陶酔の裡に鎮まる心は、恍惚と融かされてゆくばかりだ。
 そんな忘我の境地に立ってしまった彼は、その勢いのままに、あろうことか焼香まで上げてしまうのだった。参列する親族一同の気持ちも顧みずに。 ただその焼香は勿論心からの焼香であり、仮に責められたとしても、土下座をしてでも謝る覚悟はあった。
 そうして早々とも神聖なお勤めが終わり、部屋を後にしようとした時に、やはり僧がhに対して苦言を言い表すのであった。
「すいません。御親族の方ではないですよね? 関係者以外は勝手に入らないで欲しいんですけど?」
「本当にすいませんでした。申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げて詫びを入れるhの面は、意外にも清々しく、他意なき誠意を汲み取ったのか否か、僧もそれ以上は何も言おうとはしなかった。

 帰った家には既に黄色い西日が射していた。窓を全開にしていても感じる、モアーっとした温もりは招かれざる不快を齎すものでもあったが、贅沢で強引な洗礼を受けたつもりでいたhの心事しんじは殊の外爽快でもあり、これから訪れるであろう、何時もの漫然とした無聊も、そこまで苦には思えなかった。
 ───。夕方にする昼寝は気持ちよかった。暇潰しの方法がこの無為な昼寝であった事は、微笑ましい程に単純な行いながらも、薄暮に染まる外の景色を拝めた事実は、細やかな至福を彼に与える。
 そして何時ものように晩酌を始めようとした時に、今度は細やかな不幸に見舞われる。
 酒はあっても、あてが全く無い。冷蔵庫にも気の利いた食材は入っていない。何故さっきついでに買い物をして来なかったのだ。俺とした事が。
 悔いても及ばぬ下手打ちは、彼を大いに苦しめた。近くにあるコンビニにでも行って買って来れば良いだけなのに、何故か身体が抵抗する。煙草をあてに酒を何杯も飲んだ経験はある。別にそれでも良いといえば良いのだが、せっかくの連休にそれをしたのでは、如何にも勿体ないような気がしてならない。連休も平日もないような、何のメリハリもない生活を送っている彼にしては、些か大袈裟な考え方ではあろうとも。
 精神のバイオリズムがどのようにして働いているかは全く解らない。が、たかが散歩程度の外出とはいえ、何時になくアクティブに立ち回っていたこの連休の行動は、無性に彼の気を逸らせ、黙って部屋に居る事を良しとはしなかった。
 そこで思いついたのが、外に飲みに行く事であったが、逸る気とは裏腹に生じる逡巡は、そう簡単には消え去らない。重油のようにベタベタと粘着するばかりだ。やはり迷った時は何もしない方が良いのだろうか。
 諦めて煙草だけを肴に酒を飲んでいると、部屋の一隅にある棚の上に置かれてあった、袋に入れられた熨斗のしつきのタオルが、視界の片隅を捉えるのだった。
 何時かスナックバーを訪れた時に貰った、白のタオルだ。これを視界に入れてしまったという事は、それ即ち店に行け、という事なのか。
 短絡的過ぎる考えが功奏したとは言い難いまでも、彼の身体は、例のガードマンが立つ場所を超え、いつの間にかその店のドアを開けていたのだった。
「いらっしゃいませ。えらい久しぶりやん。嫌われたんかと思ってたわ」
「それはこっちの台詞ですね。たまにぐらいはママのご尊顔を拝まんとあかんと思ってね」 
「ありがとうね」
 高齢のママと他愛もない挨拶を交わしたhは、それだけでほっと安心し、一番端の席に坐るのだった。
「そんな端に坐らんでも、真ん中にデンと坐ってよ」
「いやいや。俺なんかは脇役が似合ってますから」
 まだ少し時間が早かったのか、今のところ客はh一人であった。
 何も食べていない事を伝えると、直ぐにも落ち着いた様子で、料理を作ってくれるママだった。枝豆や出汁巻き玉子、何処かで貰ったという刺身は、hの空きっ腹を十分に充たしてくれ、あてと酒を交互に食する彼の、若干はにかんだ微笑は、図らずもママの気分をも慰藉していたと思われる。
 そのあと数人の客が入って来て、店内はカラオケ大会の様相を呈して行く。元々独りで飲み歩く事を厭わなかったhも、難なくそれに参戦し、下手ながらも好きな曲を二三唄い上げる。その合間にも交わされる談笑は、下町ならではの、酒場の情義となって、互いの心情を理屈抜きに刺激し、hはそれこそ久しぶりにいい感じで酩酊して行くのだった。
 大して酒に強かった訳でもない彼が、飲むピッチだけは速かったのも、この場の雰囲気に感化された証であろうか。一々数えてもいなかったが、おそらくは五六杯の焼酎を飲んだであろう彼の意識は、まだはっきりとはしていても、海中を優雅に泳ぐウミガメのように、ゆったりとも怪しい動きを、精妙に表していたのかもしれない。
「おはようございます。遅れてすいません!」 
 詫び言をさらっと軽快に言ってのける女性の登場は、そんなぷかぷかと浮かんでいるだけのhの心情に、光の矢を放つ。黄金にまで高められた、尖鋭に研ぎ澄まされた、攻撃的な矢を。
「おっ! やっとお姫様の登場かいや。さっちゃん。今日もお疲れやね」
 入っては悪いが、このような場末のバーにも、比較的若いと思われる女性スタッフは居るのかと、怪訝そうな目つきで見たその女性には、何処か見覚えのある面影があった。hが感じた面影とは、知った者に対して思う、外形的なものではなく、寧ろ内面たる声の響きにこそ看取される、記憶の一端を担う、脳裏から離れない音に対して描かれる、歴史の産物であり、彼女の顔には全くといって良い程に、覚えはなかった。
 依然として盛り上がるカラオケ大会の轟音は、そんな彼の追憶を許してはくれなかったが、そのお陰で眼前に立ってくれたその女性スタッフとの会話は、よく訊き取れないまでも、それなりの情動エモーションで、互いの心を賑わす。
「お客さん初めてやね? 紗季って言います。よろしく」 
「こっちこそ宜しく。あ~、さっちゃんか。なんか懐かしい響きやけど。前世では夫婦めおとやったんかなぁ~?」 
「よう言うわ。誰に向かって言うとんやって!?」
「え。何が!?」
 この間にも店内には、カラオケの音が怒涛のように鳴り響いている。特に聴き慣れないど演歌を、余り巧くは唄えていない、高齢男性の歌声は、その大きさだけで天地を揺るがす程に、居る者の鼓動をも高めて行く。
 そこで気を利かせた紗季という女性は、紙に書いてまで、その意を伝えようとしてくれるのだった。
『実は私整形してんよ。もう何年も経つけど。解らへんのも仕方ないよね。でもどうこの顔? おかしくはないやろ?』 
『そうやったんか…。なるほどな。実は俺も整形してんで。髪型やけど。でも全然おかしくはないで。女優みたいやん。ええ男と一緒になったんやろな。倖せそうで何よりや…』
『いらん事は言わんでええから…』
 一々最期に点を綴る二人の、書面にてのやり取りは、幸いにも他の客達には気付かれてはいなかったと思われる。そう考えれば、このカラオケの音にも礼を言いたいぐらいだ。
 しかしながら、酒場の主として優れた慧眼を持するママだけは例外で、カラオケを活気付かぜんとする拍手や掛け声に終始しながらも、横目や捨て目で捉えるhと紗季の邂逅を、しっかりと見据える、抜かりない眼の色は、二人の男女にとっては一縷の恐怖の萌芽でもあった。
 只でさえ気の細いhに、剰え伸し掛からんとするその威厳は、心のベクトルをも見誤る程に、堅強な存在であった。
 時刻は早や日付を変えようとしていた。何時が定休日で、何時が閉店なのかも判らないこの店に、未だして居坐る客の双眸は、明るく光り輝く事はあっても、暗く閉じる事はなかった。寧ろ、まだ飲み足りない、唄い足りないといった感じがひしひしと伝わっても来る。
 そうして何時しかhの身体は己が家で、整然と横たわっていた。眩しい朝日に照らされるその顔は、唯に白く透徹され、朱い口紅の色は、実に際立った、波紋を落としていた。
 徐に寝返りを打った際に見る、紗季の表情は至って安らかだった。寝顔にても花を咲かすその紗季の存在を、hは幻にしか思えなかった。
 







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